『フォトグラファーchinoの写真館』【6】2021年の思い出

『フォトグラファーchinoの写真館』の第6回は『2021年の思い出』がテーマです。お愉しみください。

主なきかたつむりに夏風かな

 散歩コースに落ちていたかたつむりの殻。どういうわけか最近は中身のいるかたつむりにとんと出会わない。幼い頃は、かたつむりの殻がついていないのをナメクジと思っていたので、殻だけのかたつむりを見ると、引っ越し中かな? と思っていた。しかしながら、かたつむりは殻を乗り換えることはないし、なんらかの理由で殻から出てしまえば待つのは死だけらしい。
 気になって調べると、かたつむりを食べる「マイマイカブリ」というそのままの名前の虫がいるらしい。なるほど、よく見る虫である。知見を得ると、かたつむりの殻がなんとも寂しげに見えてくる。

コスモスとバス待つ人に野分かな

 ドライブ中に道路脇に広がるコスモス畑に遭遇した。思わず車をとめて撮影を開始したが、秋の強い風に吹かれて中々上手く撮れず、悪戦苦闘。それでもなんとか満足いく写真が撮れた。
 コスモスは好きな花の一つだが、庭に植えるにはハードルの高い花らしい。幼少期、何度か庭に植えて欲しいと親に頼んだが、断られた記憶がある。どんどん増えていき、際限ないので管理に困るとの事だ。庭をしっかり管理したい人とっては厄介なのだろう。逆に言えば、ズボラな私にはぴったりの花なのかもしれないと思うので、今年植えてみたいと思う。

誰も彼も弾む息の秋の山

 紅葉を見に、豊平峡ダムまで初めて足を運んだ。上まではケーブルカーがあると、どこかで聞いたことがあったので普段から運動不足でも問題ないだろうと安心して行ったのだが、一番上までは自力で行くしかなかった。何事もきちんと調べていくべきである。
 行きも帰りも休み休み歩いて、ふと足を止めて見た木の階段の美しさに目を奪われてシャッターを切った。山道の光と影のコントラストの美しさは癒やされる。

山道に熟れて目をひくナナカマド

 ナナカマドの由来は、七度かまどにくべても燃え残るほど燃えにくい材木ゆえにその名が付いたと言われるらしい。諸説あるため、これが正しいとは限らないのだが、なんとも面白い由来だと個人的には思う。植物の名前は色々あれど、かまどにくべるほど昔から身近でよくある植物だったのだろうと推測できる。
 ナナカマドの実は大変綺麗で、目をひく。これを見ると、秋だなぁと実感する。しかし、正直なところ秋にならないとそれがナナカマドだと気が付かない。ふと、ナナカマドの花ってどんなものかと考えても一切イメージが湧かないのだ。

空蝉はゆるゆると地に還りけり

 うつせみと言えば、虚しさや儚さをイメージさせる言葉だが、木を確りと掴んで離さない抜け殻を見ると、自然の力強さを感じる。
 昨年は自然の中へ足を運ぶことが多く、幼少期に親しんだ自然に出会うことが多かった。蝉の抜け殻もその一つだ。大人になると、蝉の声を聞くことはあっても、蝉自身も抜け殻も見ることが一気になくなる。久々に見た抜け殻は、被写体としては綺麗に思えたが、冷静に拡大して見ると、非常に気持ちの悪い生物だな……、とぞっとした。やっぱり声聞くだけが一番いいかもしれない。

なおざりな鶴と住民の距離かな

 道東への旅は自然とのふれあいの機会と言って良い。特に、道東に向かってまず初めに撮りたいのは丹頂鶴だ。車で走っていると、何度もその姿を目にすることが出来る。その度に車を止め、シャッターを切る。それくらい私にとっては貴重な体験なのだ。
 にもかかわらず、ある住宅地の近くで衝撃的な場面を目撃した。親子連れの丹頂鶴(私にとっては子を連れている鶴を初めて見たので興奮気味だったのだが)がよちよちと歩いているその目の前で、おもちゃに夢中な男の子がいたのだ。丹頂に気が付かないわけがない距離にいるにも関わらず、人間の子供はまったく鶴に興味を示さず、逆に丹頂も人間の子供に警戒をしない。ああ、これが彼らにとっての日常なのだな、と思うと、羨ましいような気がした。ある意味で、完全に自然と共生しているのだ。お互いがお互いを排除しないで良い関係性が出来上がってしまっている。カメラを趣味とする私にとっては、その状況は非常に勿体ないとも言えるのだけれども。