こんにちは、西内恵介です。偉大な親を持つ二世タレントってのは、なかなかに大変な気苦労があるのだろうな?とは思います。もちろん親の七光りもあるでしょうが、やはり芸事は実力ですからね、七光りだけで生き残れる甘いもんじゃありません。さて、あのジョン・レノンの長男に生まれ、同じ歌手の道を選んだジュリアン。ある意味「究極の二世タレント」と言えますが?
『フォトグラフ・スマイル』
ジュリアン・レノン
『PHOTOGRAPH SMILE 』
JULIAN LENNON 1998年
収録曲
1 デイ・アフター・デイ(DAY AFTER DAY)
2 コールド(COLD)
3 アイ・シュッド・ハブ・ノーン(I SHOULD HAVE KNOWN)
4 ハウ・メニィ・タイムズ(HOW MANY TIMES)
5 アイ・ドント・ワナ・ノウ(I DON’T WANNA KNOW )
6 クラッシィファイド(CRUCIFIED)
7 ウォールズ(WALLS)
8 ビリーブ(BELIEVE)
9 グッド・トゥ・ビー・ロンリー(GOOD TO BE LONELY)
10 キス・ビヨンド・ザ・キャッチャー(KISS BEYOND THE CATCHER)
11 アンド・シー・クライズ(AND SHE CRIES)
12 フォトグラフ・スマイル(PHOTOGRAPH SMILE)
13 フェイスフル(FAITHFUL)
14 ウェイ・トゥ・ユア・ハート(WAY TO YOUR HEART)
妻「JAW meets Pianoman クリスマスライブ!カッコよかったー!」
俺「一年の締めくくりに、いいもん見たね」
妻「あれはファンになるね。観客まぁまぁ若い女子ばかりなのわかるわ」
俺「「まぁまぁ」が余計ですよー」
妻「うちの娘もソッフェの人?とか知ってたしね」
俺「PE’Zも聴いてたって。来年は連れてけだと」
妻「そんなメジャーな2人と、よく恥ずかしくなくタシナム書いてるよね?」
俺「シーッ!みんな思ってるけど言わないとこでしょ!」
妻「あいかわらずマイナーなロック書いてるんでしょ?」
俺「いやいや、今回だって、超レジェンドの.....息子」
妻「.....JAWさん、YoYoさん、紺田社長、2018年もこんな主人を見捨てないでね?」
俺「ひとつよろしく!m(_ _)m」
二世タレントというと、どんなイメージを持たれるでしょうか?大抵の場合、裕福な親に甘やかされて育ち、たいした才能も無いのに、七光りで芸能人の仲間入り。しかし鳴かず飛ばずが続き、しまいにゃ覚醒剤なんかに手を出して.....。って感じでしょうか?もちろん全員じゃないですが。
さて、ジュリアン・レノンの場合はどうでしょう。
1962年8月、ジョン・レノンと最初の妻シンシアは、ジュリアンの妊娠を機に結婚しました。当時、まだレコードデビュー前でしたが、アイドル人気に火がつき始めていたビートルズのリーダーの結婚は「極秘」にされました。
ビートルズは1963年3月22日(英国での発売日)『プリーズ・プリーズ・ミー』で、アルバムデビューを果たします。そして、その半月後の4月8日に、ジュリアンは誕生。つまり、「ビートルズ狂騒曲」の幕開けとともに生まれたんですね。
この後のビートルズを取り巻く状況はご存知の通り。父親になったからって、ジョンは家になんか居ません。女だって取っ替え引っ替えです。有名な逸話ですが、ジョンは、「(赤ん坊の)ジュリアンと、どう接したらいいかわからない」とポールにこぼしたそうです。先行きが思いやられます。
案の定、ジョンは、ジュリアン5歳の時、シンシアとは離婚。そして、正直、我々下々の者には、わけのわからん前衛芸術家(この当時ね)オノ・ヨーコと再婚してしまいます。『ヘイ・ジュード』は、この時にポールがジュリアンを励ますために作った歌でしたね(ジュードはジュリアンの愛称)
その後父子が会ったのは、ジュリアン10歳の時。ビートルズファンには「失われた週末」として有名な、ジョンの浮気と過剰なドラッグ摂取が原因で、ヨーコと別居していたあの時期です。
ジョンを訪ねていったジュリアンは「父は心ここにあらずといった感じで、会話も続かず、ぎくしゃくした空気が支配していた。別れ際クリスマスプレゼントをねだると、後日ドラムセットとギターが家に届いた」と、その時のことを回述しています。
その後「何回か」は会ったらしいですが「ぎくしゃくした空気」が2人の間から無くなることは、無かったそうです。
どうですか?あれだけのスーパースターの長男の幼少期にしちゃ切なすぎますよね?それにしてもジョンのダメ親父っぷりも相当なもんです。ジュリアンにしてみりゃ『イマジン』なんて「何が愛と平和じゃボケっ!自分の息子に愛情のかけらも見せんくせに!」って感じでしょ?
1980年、ジュリアン17歳の時、ジョン・レノンは自宅前でストーカー的なファンの男に射殺されます。
この時もジョンの膨大な遺産が、ジュリアンには一銭も渡らない(!)など、この親子には世間が計り知れない何かが存在するのだなぁと、感じたものです(遺産についてはヨーコとの法廷闘争などもありつつ、約20年後(!)にジュリアンにも相続されました)
そんなジュリアンが歌手デビューしたのは1984年の21歳。マジか?と誰もが思いました。風貌が、若きジョンに生き写しなのは、皆わかっていました。が、歌声まで、ここまで似てるなんて、誰が想像できました?
当然、世間は「ジョン二世」を期待します。そこにプロデューサー、フィル・ラモーンの「70年代寄せ」な音作りは巧妙で、ファーストアルバム『ヴァロッテ』は、世界中でヒットしました。
微妙ですよね?ジュリアンにしてみても、シンガーとしての父の偉大さは充分に理解できる。けど、自分にとってはクソ親父でしかない。しかし、世間が自分に求めるものは、そのクソ親父のクローンであること!
そりゃ葛藤したでしょ。迷いを反映したのか、セカンド、サードとセールス的に落ちる一方。そのため、世間は「親の七光りでデビューしたけどダメだった一発屋」との烙印を押します。
最悪の展開!
しかし、ジュリアンって、しっかり曲書けるんです。歌も非常に上手い。けど、何か「これ!」というオリジナリティに欠けるのは否めません。
1991年4thアルバム『ヘルプユアセルフ』は良盤で、『ソルトウォーター』のシングルのヒットもあり、復活を予感させるものでした。
ところが、所属レーベルが大手に吸収された影響から、過酷なツアーなど営業活動が1年以上続き、ジュリアン本人は憔悴しきってしまいます。そして、音楽活動から距離を置いてしまいます。30歳を迎える直前ってのも、節目だったのかもしれません。
世間的には「一発屋確定」ってところでしょうか?
その7年後、1998年に突如リリースされたのが、本作『フォトグラフスマイル』です。
ジュリアンも35歳。どう変わったのか?父の呪縛から逃れることができたんでしょうか?
いいえ、逆です。堂々と「ジョン二世」を受け入れたんです。
迷いが吹っ切れたのか、ここで聴かれる楽曲は、これまでのどっちつかずな感じは、何だったんだろう?と思わせる、丁寧に練られた、説得力に満ちたものばかりです。
1曲目はシングルカットもされた『デイ・アフター・デイ』。一見、戦地へ旅立つ父と家族の歌に聞こえますが、どう考えても自身と父ジョンのことを連想させます。
そして、父のクローンを期待する人達にも、そうしてみせます。5曲目『アイ・ドント・ワナ・ノウ』の歌い出しなんて、何度聴いても、ジョンにしか聞こえません。
開き直りとも言えますが(本人の楽曲解説がインナーにあるのですが、「ビートルズみたいなの作らないの?って周りがあんまりうるさいから作ってみたよ」などと書いています)色々なことが「吹っ切れた」って方が正しいんじゃないかな。
最終曲『ウェイ・トゥ・ユア・ハート』に至っては、ビートルズの『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド』のメロディがそのまま引用されています。
シーン復帰と思いきや、ジュリアンはこの後また、10年以上新作を発表せず、フォトグラファーとしての活動に重点を置きます。こちらでもU2のアートワークを担当したりと、才能を発揮します。
2015年には、母シンシアが他界。ジュリアン始め、ポール、リンゴ、そしてヨーコまで追悼のメッセージを表したのは、記憶に新しいと思います。
2017年末、発売されたばかりのU2の最新作には、ゲストミュージシャンとして参加もしており、「音楽稼業」から完全に足を洗ったわけでは無いようです。また気が向いたら(笑)新作も発表してくれるでしょう。円熟期を迎えるだろう、今後の活動に期待です。
ケイズ管理(株)西内恵介