『毎日ゲームが作れて、これはいいわい』 ~破天荒開発者から経営者へ
― そこから高校生になって、卒業が迫って、いざ就職、という時はどういう方向を目指されたんですか?
小林「高校生の時にコンピューターを買ってもらって、自分でプログラムを組んでいましたから、こういう業界に就職するのも面白いな。と思っていて。自分が琴似工業高校を卒業したのは、ちょうどバブルが始まる頃だったので、学校の求人票を見ると、アーケードゲームを作っている会社の名前がバーっと並んでいました。でも、良く見るとゲームセンターの手伝いみたいな仕事なんですね。その中で札幌にあったデービーソフトという会社の求人試験を受けてみたら受かって。それからずっとこの業界です」
― 入社してみて、どうでしたか?
小林「いやもう、毎日ゲーム作れるんで、これはいいわい。という感じでしたね。労働基準法なんて気にしないユルイ世の中でしたから、会社に泊まって夜中じゅうプログラムを書いたりしていました。同僚もみんなそうしていたので、苦しかったという記憶も無いですし、ただただ、面白かったです」
― プログラマーとして就職なさったんですね
小林「はい。当時は一人でなんでも作ってよい。という状態だったので、絵も描きますし、音もちょっと作ったりしていました。就職した当時は1985年。ファミコンが出た2年後くらいですか」
― 一番最初に手がけられたソフトはなんですか?
小林「ファミコンのソフトは『ヴォルガードⅡ』というロボットが変形して敵を倒すシューティングゲームです。前作の『ヴォルガード』は僕が入る前に企画のおじさんが作ってたんです」
― 企画のおじさんですか?
小林「企画のおじさんは、なかなか会社に出現しないので、5年間で2回くらいしか会ったことがなかったです。時々来て、企画書を置いて帰っていく。謎なんです。そういうのが許される環境だったんですね」
― 自由ですね! ファミコン以前にも作られたソフトがあれば教えてください
小林「PCのゲームを作っていました」
― ゲーム文化財の保存を目的とするNPO『ゲーム保存協会』が取材に来たという、あの有名作品『うっでぃぽこ』ですね!
小林「そうです。有名かどうかわかりませんけど(笑)。デービーソフトは好きに作らせてくれる会社だったんです。今、僕も経営者をやっていますけど、高卒の子にいきなりひとりで好きなもの作っていいよ。って言えるか? と思うと。…一体どういう理論でそういうことができるのか(笑)。いい時代でした」
― 『うっでぃぽこ』は、小林代表が入社されてすぐ、ひとりでお作りになったんですか?
小林「大体、ひとりで作っていますが、手伝ってくれた人がいっぱいいて、速度が必要とされる部分のプログラムや、グラフィックの部分は手伝ってもらっています」
― 企画やルールの部分は小林代表がお作りになったんですね。
小林「ええ。パッケージで販売された後、ファミコンにも移殖されています」
― この作品は、当時、何本くらい売れたんですか?
小林「どれくらい売れたのかは、全然わからないんです。『次も作っていい』と言われたので、作り続けていたんですけど。売上本数に応じて給料が上がるわけでもないし。当時で手取り7万円くらいだったかな。ご飯食べたらなくなっちゃうくらいで」
― それで、朝から晩までプログラムし続け、ゲームを作り続けていらっしゃった。
小林「はい。後から聞くと、当時ファミコンはどんなソフトを発売しても、1作10万本という単位で売れていたというので、ソフトを1本出すと億単位の売上が入ってきたそうです。それを高卒の子が3人とか4人で作っていましたから。…給料、もっと貰っても良かったですね(笑)」
― 『うっでぃぽこ』は、どれくらいの期間でお作りになったのですか?
小林「半年くらいだったと思います。技術のトップが1人付いてくれて、デザイナーが3~4人、サウンドが1人。合計5~6人で作っていました」
― 当時、会社には何人くらい社員がいたんですか?
小林「たぶん、50~60人はいたんじゃないでしょうか。札幌テクノパークができた時に、そこへビルを建てたんです」
― まさにバブルの始まりですね
小林「そう、だからご飯なんかも、夜になると同僚みんなでどこかへ行って食べるんです。そして、自分で支払った記憶がない。食べ物に困ったことはなかったですね。気がつくと、社内に誰だかわからない人たちが増えていくんです。ゲームの部署だけだと15~16人の社員ですが、ワープロを作ったり、ビジネス部門もありましたから」
― デービーソフトへ入社されてから、どれくらいお仕事をされていたのですか?
小林「ずっとゲームの部署に居て、企画のおじさん達が会社に出てこないので、最終的には僕が責任者をしていました。デービーソフトで仕事をしたのは5年間くらいでしょうか」
― その後、新しく会社を設立されるんですね。
小林「仲間何人かと会社を出て、アジェンダという会社の設立メンバーになりました」
― 何人で始められたのですか?
小林「最初5人でスタートして、最終的に自分が辞めるときには70人くらいになっていました」
― 大きい会社ですね。アジェンダでは何年くらいお勤めになったのですか?
小林「18年くらいかな。マイペースにゲームを作り続けていたんですけれど、取引先はどんどん変わっていきました。3年周期くらいで新しい家庭用ゲーム機が出て。最初は任天堂さんのゲームボーイ、スーパーファミコン。並行してハドソンさんのPCエンジンが出たりしました。その時々のハードウェアに合わせて開発をしていて、ソニーさんがプレイステーションを出した後はソニーさんとの仕事が増えました。何年か後に任天堂さんがDSを出したときからは、任天堂さんと一緒にソフトを作ったりして。という感じです」
― 小林代表は、引き続きゲームの担当をしていらしたのですね。
小林「そうです。ゲーム以外では、『宛名職人』というのがアジェンダとしては一番大きい事業なんですけど、他にもビジネス関係の事業がいくつかありました」
― そこから独立なさったというのは、どういう理由からだったのですか?
小林「会社の目指す方向と、自分のやりたいことが違ってきた。というのが理由ですかね。ちょうど厄年でね。良くある話ですよ(笑)。個人的な都合だったので、最初はただ仕事を辞めようと思ったんです。でも会社の方から、『ゲームの部署はどうするんだ? 一緒に辞めようとする社員もいるだろうし、連れていってくれないとウチではコントロールできないぞ』っていう話が出て。じゃあ、会社、作りますか。となったら、『仕事も出せるよ』という風になりまして、会社を設立しました」
― 何年に起業されたのですか?
小林「2008年です。1月でしたので、今年9年目に入りました」
― 順調ですか?
小林「多分順調です。人数×1000万円ベースでずーっと稼いで行ければいいよね。という当初の目標を達成し続けていますので、あまり飛びぬけたこともせず、儲かりすぎたら社員に撒く。利益が出ると面白そうな、余計な事をして使っちゃう。みたいな感じですけど(笑)」
― そういう風に、お仕事と面白いことを両輪にしてバランスをとりつつ、順調に会社運営をしていらっしゃる。素晴らしいですね!
小林 貴樹 社長 インタビュー 【1】 【2】 【3】 【4】