株式会社ジャンパップ 荒川岳志 代表 インタビュー
築地からブラジルへ ~『在野精神』で掴んだ推薦状
― 2年前に荒川さんの講演を聞いて以来、インタビューさせていただけるのが夢でした。今日は、どうぞ、よろしくお願いいたします。
荒川代表(以下、荒川) 「これまで仕事で何千人も取材してきましたが、自分で取材を受けるのは初めてなんです。緊張しますね(笑)。よろしくお願いいたします」
― 先ずは、プロフィールから教えてください。
荒川「1963年12月20日生まれ、A型、登別出身です。高校卒業まで登別で過ごしました。あそこは海があって山があって川があって、コンパクトに自然が揃っていて、子供が育つにはちょうどいい環境なんですよ」
― あの辺りの海は波が高いそうですね。地元の子でも海に入るのは危ない地域だと聞きました。
荒川「そう、遊泳禁止なんです。僕ね、中学の時に1度、海に入ったんですよ。急に深くなるって言うからね、試しに入ってみた。そうしたら、溺れたんです(笑)。もうね、海面がここの天井より高いところに見えて、あぶくが上がっていくのが見えて、ああ、これで死ぬのかな。って思いました。次の波で海岸に打ち上げられて助かった。僕は本当に運がいいんです」
― そんなことがあったんですか!反対に海へさらわれていたら、今こうしてお会いできませんでしたね。
荒川「そう。生まれたときからそうなんですよ。僕、陣痛から4日目で生まれたんです」
― 4日目ですか。それは大変な難産ですね。
荒川「あと3時間待って生まれないようだったら、母体を優先させると医師に言われていたそうですから、奇跡です。感謝しないと(笑)」
― 幸運とお母様の努力に感謝ですね。小さい頃はどういうお子さんでしたか?
荒川「幼稚園の時に母親が庭先でチューリップを切っていたんです。部屋に飾るためにね。それを見て泣いたのを覚えています。そこで咲いているのがきれいなのにどうして切ったのか?って聞いたら、母が『お部屋に置いた方がみんなによく見えるでしょ?』って。それを聞いて、泣いてしまったんですね」
― 切られたチューリップが可愛そうになってしまったんですか。感受性の強いお子さんだったのですね。荒川さんは、大学時代にブラジル研修の経験をお持ちですが、子供の頃からブラジルへ行きたいという思いがおありだったんですか?
荒川「いや、全然(笑)。ただ、小学校低学年の時に父親から『岳志、ブラジルにノグチさんっていう親戚がいるんだけど知ってるか?』って聞かされてね。ブラジルに親戚が居るって聞いても、現地の情景が全く思い浮かばないんですよ。当時、海外の生活を紹介するテレビ番組は『兼高かおる世界の旅』と『野生の王国』しかなかったですから(笑)。だから、その時からブラジルって、どんなところなのか1回見てみたい。と、ずっと思っていたんですね。自分では覚えていないんですが、そういう話を周囲にしていたみたいです。それであるとき、大学の後輩が僕に『ブラジル研修生募集のポスターが貼ってありましたよ。見ましたか?』って。やっぱり何かを言い続けていると、本当になるのかもしれないですね(笑)」
― ブラジル行きの情報が、荒川さんに引き寄せられてきたんですね。
荒川「そのポスターを見に行ったら、応募締切が数日後なんですよ。要項を見ると、教授2人の推薦状が必要だって書いてある。僕、大学へはほとんど行ってなかったんで、困ったなあ。と思っていたら、そのポスターのすぐ隣に、ブラジルから講師を招いて経済を学ぶという講座の告知が貼ってあったんです。これだ!と思ってね。すぐに、その講座を聴きに行きました。そのころ僕は築地の魚河岸で働いていましたから、長靴に作業ズボンをはいてね。ウロコつけたままで(笑)。とにかく、先生の推薦状が欲しくて行ったわけです(笑)」
― ウロコをつけたまま、ブラジル行きのチャンスをつかまえに行った!
荒川「その講座で通訳とコーディネートを担当していらした毛馬内先生にね、推薦状を書いてもらえないかと、その日のうちにお願いしたんです。そうしたら、明日また来なさい。と言ってくださって、翌日、推薦状を頂きました。その推薦状…。実は僕ね、提出する前にこっそり中を見てみたんですよ。一体、何が書いてあるのかと思って…」
― 1度しか会ったことがない教授が書いてくれた推薦状。気になりますね。なんて書いてありましたか?
荒川「それはね…、いや、これは思い出すと泣いちゃうな(笑)。冷静にね、明るく話します。先生はこういう風に書いてくれました。『明治大学は在野精神のある若者を育てる大学である。この若者のことは良く知らない。だけど、推薦状を頼みにきた彼の言葉や行動、その目はまさしく我が大学が求めている若者である。どうか貴協会に入れてやってくれないだろうか』と、書いてありました。泣きましたね。僕はこの1通があればいいと思いました。これで僕を採ってくれないなら、それでいい。と思ってブラジル研修を主催している協会に提出したら、『君、面白い』と、採用してくれたんです」
― その日、初めて会った学生を推薦してくれる教授も素晴らしいですが、想いを伝えられる荒川さんもすごいですね。
荒川「ラッキーだったんです。ブラジルに行ったときには、現地に100万人以上いる日系人を束ねる文化協会があるんですが、その会長さんが僕の引受人になってくださって、お世話になりました。いろんな巡り会わせがあってね。本当にありがたいです。当時、ブラジルで一緒に居た仲間は今でも心の友達ですよ」
― 荒川さんが参加したブラジル研修を主催している協会の正式名称を教えていただけますか?
荒川「当時は『日本ブラジル青少年交流協会』という名称でした。一般の協会でしたが、後に社団法人になり、現在はそこのOG、OBが新しい団体を立ち上げ、名称は『ブラジル日本交流協会(ANBI)』となっています。今も日本からブラジルへ研修派遣事業を継続している団体です」
― 当時のブラジルの生活状況というのはどういう感じでしたか?
荒川「僕がサンパウロで研修したのは1988年4月~89年の3月までの11ヶ月間です。当時は貨幣価値でいうと、感覚的には1/7くらいでした。日本で700円で買えるものが現地では100円で買える感じです。ただ、10日から1週間くらいの間で商品の値段が全く変わってしまうんです。ハイパーインフレでね。だから、あちらでの生活費は受け取ったら直ぐに物品に換えていました。生活用品とか、公衆電話にフィッシャーという専用の硬貨を入れるんですけど、それに換える。この1個1通話という価値は変わらないのでね。こないだまで100って書いてあった紙幣をよく見ると10000って書き直してある。また次の時には、その上にハンコが押してあって、お金の通貨単位自体が変わってしまっている。そんな状況でした」
― ブラジルの街の印象というのはどうでしたか?
荒川「甘い。車の排気ガスが甘いんです。あちらではガソリンの代わりにサトウキビから作るアルコール燃料を使うんですね。サンパウロに降りて最初に感じたのは、甘いなあ。ということ。太陽がツカーッと照って、突き抜けるようなところで、ここで1年暮らせるのはいいな! と思いました。街路樹にオレンジがなっていてね。サンパウロは標高800mくらいのところにあるので、日差しは強いんですけどカラッとしています」
― サンパウロの市場でお仕事をされていたそうですが、魚河岸で働いていらしたんですか?
荒川「あちらではサンパウロ市中央卸売市場に居ました。僕をブラジルに送り出した協会の理事がね、『荒川はアジアで一番大きい築地で働いたんだから、今度は南米で一番大きい市場で働いたら、何かひとつくらい論文書けるだろ?』って言ってくれて。ところが、サンパウロ市中央卸売市場はほとんどが野菜と果物の市場なんです。肉魚も扱いますけど、ほんのちょっと。僕が働いたのは野菜を扱う店でした。当時は日系人が野菜の生産と流通の6割から7割を占めていたので、ブラジル人がよく言っていました。『俺たちが野菜を食べられるようになったのは日系人のおかげなんだ』って。ピーマン、ナス、トマト、ショウガ、オクラ、トマト、ズッキーニなんかを扱ってました。面白かったですね」
― 荒川さんは長く報道のお仕事をされてきた方ですが、文筆の専門家というよりも、どこか下町の魚屋さんのような気さくな実践家の雰囲気を持っていらっしゃるのは、市場でお仕事をした経験がおありだからでしょうか。
荒川「協会の理事達は、僕の就職先を随分心配してくれましてね。ブラジルに渡航する前に『帰国してからどうするんだ?』って聞かれて。僕としては、『いや、心配しないでください。魚屋やりますから!』って(笑)。大学出たら、夜も働けるし、そうすれば貯金もできる。何年かしたら自分の店持ちますから!って答えました。『そうか、それならいいな。荒川、採用する』って(笑)」
― 力強い若者ですね!
荒川「ところがあちらに行って、あることをきっかけに新聞記者の道を選ぶことになるんです」
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