新敦榮股份有限公司 總經理 勝野哲郎 インタビュー

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再び台湾へ ~睡眠時間2時間の生活を支えたご両親・恩師の言葉

 

勝野「直接のきっかけになったのは、ブラックタイガーエビです。当時このエビが出始めで、商品PRですとか、現地でのプレゼンテーションや工場見学の随行がありましたから、来てほしいと。夏はエビ、冬は野菜の輸出、そのうえ、その頃は畜産、豚肉の輸出も動いていましたから」

 

― 一年中フル稼働ですね!

勝野「商品によっては、パッケージの打合せが大変なんです。エビは『パッカーズブランド』といってうちの会社のパッケージで良いのですが、農産品は『ユーザーズブランド』といって、各企業のパッケージで販売します。でも、農作物は毎年作柄が違うでしょう? 作柄によって値段も変わるし、商品の規格も変わる。それを毎シーズン協議して決めるんです」

 

― そのたびにパッケージの変更が必要になるんですか?

勝野「そう。一番大変なのは、夏冬の商品が重なる時期。日本から台湾へ視察にいらっしゃったお客様をご案内するスケジュールというのも、午前4時~5時にエビの収穫を見学して、獲れたてのエビで朝食。8時からは工場で選別作業見学。午前中に作業が終わりますので、午後から私が運転して、皆様をゴルフにご案内する。戻って来て夕食、そこからカラオケ。毎日、深夜1時、2時の帰宅が普通の生活でした」

 

― そして、また翌日も朝4時からエビの収穫に出発される…。殺人的なスケジュールですね。

勝野「私の若い頃は、一年365日のうち300日お客さんとお会いしていました。最大で45日間連続接客です。よく持ったなあ。と思いますけど、そういう人生なんですよ(笑)」

 

― そういった生活は、お幾つの頃まで続いたのですか?

勝野「2回目に副社長として台湾に戻って来たのが37歳の時です。副社長プラス営業ということで接待係でね。そこから50歳くらいまでかな。15年近くそういう生活をしていました」

 

― お身体大丈夫でしたか? その時期、ストレスも大きかったのじゃありませんか?

勝野「身体の方は丈夫だったんですねえ。大丈夫でした。ストレスもね、僕はあんまり溜まらないんですよ。溜めないように仕事をするというかね」

 

― その秘訣を、教えてください!

勝野「秘訣は特にないんですけど(笑)、僕には先生がたくさん居てね。例えば、セイコーマートで一番売れてる『とんかつ』を納品している、藤井社長が私の恩師です。今でもご自身でお書きになった本を送っていただき、叱咤激励を受けています。毎日が勉強です」

 

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恩師の色紙と勝野社長。 「毎日が勉強です。」

 

  ― 最初、ご自身では、『自分は営業に向いていない。』と思っていらっしゃったそうですが、工場で副社長兼、営業窓口を担当されていても、ストレスを感じなかったというのは、どうしてですか?

勝野「その頃、大きな会社では若手の、これから伸びるような人達が窓口であったし、小さい会社では社長様が直接お相手してくださるので、色々なことを教えてもらえたんです。僕が担当させていただいた方は、後にみなさん成功されてね。当時、そういう人達が台湾の工場に来てくれていたからでしょうね」

 

― 勝野社長にとって、そういう方たちと可能性のあるビジネスに挑戦することは、辛い仕事ではなく、非常に楽しいことだったのですね。

勝野「僕は、人と会って、色んなことを勉強するのが好きなんです(笑)。あとね、私のルーツは、九州からきた屯田兵なんです。その血が流れているんでしょうね」

 

― そんな勝野さんの学生時代について、お話を伺ってもよろしいですか?

勝野「子供時代は、海で相撲とったりして遊んでいました。生活のために薪を割ったり、家の外から水を汲んでこなくてはならかったですしね。そういう中で、身体が鍛えられたんじゃないかと思います。子供の頃は鹿部町に居ました。小学校の頃は、1学級60人、2学級で120人位の子供達がいたんですけど、学校が海のそばにあって、昆布とかイカの季節になると生徒がみんな漁に出て教室に居ない(笑)。3~4人しか学校に出てこないんです。秋になるとドンゲ(乾燥したイタドリの茎 ※ストーブの燃料になる)採りで、またみんな学校に出てこない(笑)。勉強しないというか、出来ないというかね(笑)。中学校2年の時に鹿部から大沼へ移りました。大沼中は進学校でね、転校してみたら、授業の進度が全然違う。最初は大変でしたが、なんとか勉強して高校に入学しました」

 

 高校時代はどういう学生生活を送られましたか? 部活動には参加していましたか?

勝野「一生懸命、勉強して入学したんですけど、高校に入りましてからゆるみましてね(笑)。ホントに成績はゲッパでしたよ。後ろに何人かしかいないのに、一番下からどんどん切られて居なくなっていく(笑)。部活動ではないけれど、毎日走っていました。下宿から函館大まで10キロぐらいかな。毎晩、夕食前に仲間と一緒に走って、わーっと晩飯を食う。よく食べて、よく遊んでいました。」

 

 ご両親のことで記憶に残っていることがありましたら、教えてください。

勝野「僕の親父は函館の師範学校を出て、教師をしていた人です。家に色んな賞状が飾ってあった。花が好きで、犬がいてね。『よく遊び、よく学べ』がモットーで、日曜日に勉強していたら怒られるんです。『外で遊べ!』って。おふくろの方も家が良かったみたいで、女学校を出てから嫁いで来たそうです。子供の頃、うちで登別に別荘を建てることになったんです。おふくろが実家から持ってきた伝来の財宝とか、父が大切にしていた書籍を別荘へ移して、さあ、そこに入ろうとした前日、ろうそくが倒れて火事になってみんな燃えてしまったそうです。だから、うちのおふくろがよく言っていたのは、『残るのは、身についたものだけだよ』ということ。教養であったり、友達であったりね。財産っていうのは一遍で無くなるものだから、勉強はしたほうがいいよ。身体は丈夫にしておいたほうがいいよ。ということをよく言っていました」

 

 

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