新敦榮股份有限公司 總經理 勝野哲郎 インタビュー

 新敦榮股有限公司 勝野哲郎 総経理 インタビュー
01-5

冷凍食品のパイオニア! ~オイルショックからの起死回生

 
― 初めまして。台南のラーメン店『仁之蔵』今野社長にご紹介を頂きまして、インタビューにお伺いいたしました。突然のご依頼にも関わらず、ご承諾くださり、ありがとうございます。どうぞよろしくお願いいたします。

勝野「よろしいですよ(笑)。何かのお役にたてれば、と思ってね」

 

― それでは、プロフィールからお聞かせください。

勝野「1946年7月23日生まれ。血液型はA型です。函館出身」

 

― 好きな食べ物と苦手な食べものがお有りでしたら、教えてください。

勝野「苦手なものはないです。なんでも食べます。好きなものは…、珍しいものが好きですね。新しいものが出たら、何でも食べてみないと気が済まない(笑)。食品の仕事をやってるからね」

 

― 好きな言葉はなんですか?

勝野「色々あります。最近はこの本が好きなんです。一冊差し上げます。(インタビュアーは)言葉の仕事をしていらっしゃるから、何かの参考になれば」

 

― あ、斉藤茂太さんのご本ですね!『 いい言葉は、いい人生をつくる』。 頂戴します。ありがとうございます!

勝野「この本の中には、いい言葉がたくさんあります。とにかく、明るい言葉を使って楽しくね。だから、僕はストレスが溜まらないんです。他所の人が聞いたら、『大変な人生ですね』とおっしゃるけど(笑)。海外に来てね。楽しくやらせてもらってますから」

 

いい言葉は、いい人生をつくる (著者 斉藤茂太)

 

― では早速、勝野社長のお仕事について、お聞かせください。

勝野「それじゃあね、昔の話からいきましょうか。これは昔のうちのパンフレットです。1973年とありますね。『台湾健康食品』という会社です。元々は明治乳業の子会社『 明治ケンコーハム 』が作った会社で、台南に工場があったんです。当時の董事長が 邱永漢 。先日お亡くなりになりましたね。うちの会社の頭首だったんですよ。3か月に一遍、台北でよく食事しました」

 

― 邱永漢氏と台湾でご一緒にお仕事をしていらっしゃったんですか!

勝野「ええ。どうして、こういうことになったかと言うとね、邱永漢先生。この方は東大出身なんですけど、日本で本を書き生計を立てているうちに、『株の神様』と呼ばれる著名人になられた。優秀な方だから、台湾政府から戻って来て欲しいと要請があったんです。その頃、台湾で畜産の工場を作りたいと考えていた『明治ケンコーハム』の社長と出会って、「それでは、一緒に台湾へ行きましょう」というお話になり、『台湾健康食品』を作ったんです。

 

― 勝野さんはその会社にご就職なさったのですか?

勝野「僕は、その数年前に日本で『明治ハム』という会社に入社しました。僕も現場で教わりながら、研究室で(加工品の)配合(レシピ)の方もやりました。工場研究室と生産管理を3年ぐらい経験した時に、『明治ハム』は『ケンコーハム』と合併して、現在の『明治ケンコーハム』に名称が変わったんです」

 

― 合併後の『明治ケンコーハム』で勝野さんはどういったお仕事をなさっていたのですか?

勝野「社長室に呼ばれましてね。新商品開発のセクションがそこにあったんです。その時、うちの会社で出資していた会社『台湾健康食品』の工場が完成しました。「お前は工場の経験があるんだから、ちょっと行ってこい」と言われまして、『明治ケンコーハム』から『台湾健康食品』へ出向しました」

 

― その時、勝野社長はお幾つですか?

勝野「26歳。当初は社長秘書として2年くらいの渡航、という予定で台湾に来ましたら、工場が3か月稼働した時に突然、豚肉が輸出禁止になるという問題が起きました。1万4000坪の工場が開店休業ですね(笑)。この時期、日本はちょうど、オイルショックの直後です」

 

― 台湾の工場が大変な時に、日本の本社そういった状況で。

勝野「そうなんです。しかしこの時期、冷凍食品が流行り出した時代で、豚肉の他にも、冷凍食品にしたい食材が台湾にはたくさんありました。『日本人が駐在して、管理運営している会社』ということで、日本の商社さんからご指導をいただき、豚肉の代わりに冷凍食品の製造と輸出を開始しました」

 

― それが、ヒット商品につながったわけですね。会社が危機的な状況にありながら、これまでなかった新商品を開発することで、台湾で冷凍食品輸出の草分けになられた。

勝野「日本の会社からオーダーを受けて、台湾で製造する。どんなものが売れるのか、あらゆるものを試しました。何か売れるものがないかと思ってね(笑)。そうして出来上がったエビ、野菜の商品は当時の大手水産会社さん、商社さんがどんどん買ってくれるようになったんです。台湾の工場は(システムが)出来上がったから、今度は日本から販売をフォローするように。と日本に呼び戻されました」

 

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新敦榮股份有限公司のオフィスに並ぶ、様々な商品の資料ファイル

 

― そのときの台湾滞在は何年間だったのですか?

勝野「そのときは2年間居て戻りました。日本に戻ると、会社内に貿易部がなかったですから、海外事業部を用意してもらいまして、社内外、多くの皆様に助けられて、なんとかやってきました」

 

―当時、海外で工場を立ち上げした経験のある若者というのは、なかなかいらっしゃらなかったでしょうから、大変貴重な人材だったでしょうね。

勝野「おかげさまでね。冷凍商品が時流に乗り、日本人が駐在管理している会社の商品だ、ということで、エビも野菜も工場で作れる分だけ買っていただけるようになりました。時代の流れで、最初は商社さんとのお付き合いから始まって、次に水産業者さんとの取引になり、そこから大手スーパーマーケットやコンビニさんともお仕事するようになりました。その後は7年間、日本で貿易営業を担当しました。この頃、台湾の工場で扱う商品も量も多くなったので、今度は台湾の方から戻って来て欲しいと呼ばれ、(台湾に)戻ることになるんです」

 

 

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