横浜シネマリン 支配人  八幡温子 インタビュー

  『封切館』発祥の地・横浜の映画文化

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― 再建に関わった劇場デザイナーの方、音響デザイナーの方はどういったご縁でご一緒されることになったのですか?

八幡「当時、私が通っていた映画美学校の講師でもあった『アテネフランセ文化センター』の堀さんにご相談したんですけど、堀さんから内装デザイナーの岩崎さんをご紹介していただきました。川崎市に『川崎市アートセンター』というのがあって、そちらの建設を手がけたのが堀さんと岩崎さんのコンビです。その2人でシネマリンの再建工事をやろうと思うというので、是非、お願いします。となりました」

 

 ― 劇場再建、運営についてお伺いします。劇場再建の際に、横浜市からの援助は受けられましたか?

八幡「今、横浜市で芸術不動産リノベーション事業っていうのをやっていまして、関内駅や桜木町駅周辺の古くなった物件をリノベーションして、芸術文化に寄与するような施設に作り変えた団体に対して、助成金を上限1,000万円まで支給するというのがあるんですね。これを利用しない手は無い、と思って申請を出しまして、降りることになりました。最終的な二期工事が終わってないので、まだ頂いていないんですけど、これから査察に来て、3月末には決済する予定です」

 

― 横浜市は芸術に対しての支援に力をいれているのでしょうか?

八幡「いえいえ、横浜に比べて川崎のほうがずっと力を入れてますね。川崎市アートセンターは川崎市が経営しているので、助成する金額の規模が違います。横浜は以前、みなとみらい21地区でフランス映画祭をやったんですけど、みんな東京に取られちゃったし、フランス映画祭のために寄贈されたフィルムも横浜市で管理できないって、京橋のフィルムセンターにみんな寄付しちゃったりして…」

 

― そうなんですか。横浜には映画文化を大切にする気風があるのかと思いましたが、実際はどうですか?

八幡「そうですねえ。映画に関して言えば、昔、海外の新作映画は缶に入って封をされて、まず、横浜の港に着きました。その新作映画が日本で一番最初に公開されるのが横浜オデオン座だったので『封切館』という言葉が横浜から生まれたんです。ここら辺の界隈は全盛期40軒くらいの映画館がありました。90年代に入ってから東映、日活、松竹の劇場が相次いで消えていきましたが、歴史的に映画を大切にする土壌はあるのかな、と思います」

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1936年(昭和11年)の伊勢佐木町通り 『横浜オデオン座』 (画像元:http://goo.gl/jYCKbI

  

― 今、映画上映だけでは動員の確保が難しいと言われていますが、横浜シネマリンをイベントスペースなどに活用するというようなことはお考えですか?

八幡「映画館を映画上映以外で活用するということは、考えていません。映画以外の事業に手を出すと映画館ではなくなってしまうかな、と思います。魅力的なプログラムを組むとか、年齢層、時間帯に合わせた企画を立てるとか、映画に関わるゲストをお呼びするとか、番組で勝負したいと思っています」

  

― 今、横浜シネマリンの上映プログラムの編成をしていらっしゃる西村さんは以前、吉祥寺バウスシアター(2014年6月閉館)にいらっしゃったそうですが、吉祥寺バウスシアターは『爆音映画祭』発祥の地ですよね。北海道の新千歳空港国際アニメーション映画祭でも今年10月に爆音上映の予定があるんですよ。

八幡「そうなんですか!当時、都内で爆音を出せる映画館があそこしかなくて引き受けた、と聞いています。バウスシアターは元々ライブハウスなんですよ。企画は株式会社boidの樋口さんという方がやってらっしゃいます。北海道でもやってるんですか(笑) 私もアップリンクでインタビューを受けたときに、「爆音映画祭いいですね!」なんて言ったら、そのまま掲載されちゃいまして。でも、うちの劇場は地下で残響がすごいので「不向きです」って(笑)。設備的に条件を満たせる劇場が都内には無くなって、会場探しに苦労してるって言ってましたよ」

 
― それで北海道まで来てくださったんですね!

 

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