音楽紹介 [73] 『SOMETHING/ANYTHING?』

 こんにちは、西内恵介です。東京オリンピック開催まで1ヶ月を切りました。と言うか開催するんですよね?我が街札幌でも1972年に冬季オリンピックが開催されました。氷上の妖精ジャネット・リンや、表彰台独占の日の丸飛行隊、意外と記憶にあるもんです。タシナム執筆陣でわかるの紺田社長だけだろうけど(笑)

 今回はこの年にリリースされた名匠の名盤。どうも日本ではマニア好みのマニアなミュージシャンになっちゃってますが、欧米では「ポップスの魔術師」として広く愛されている...マニアな人(笑)

A面 A Bouquet of Ear-Catching Melody

1 アイ・ソウ・ザ・ライト

2 所詮は同じこと

3 ウルフマン・ジャック

4 冷たい朝の光

5 イット・テイクス・トゥー・トゥ・タンゴ

6 甘い想い出

B面 The Cerebral Side

1 イントロ 

2 ブレスレス

3 ザ・ナイト・ザ・カルーセル・バーント・ダウン

4 セイヴィング・グレイス 

5 マーリーン

6 ソング・オブ・ザ・ヴァイキング

7 アイ・ウェント・トゥ・ザ・ミラー 

C面 The Kid Gets Heavy

1 ブラック·マリア

2 ワン・モア・デイ

3 伝えずにいられない

4 トーチ・ソング

5 小さな赤い灯

6 甘い想い出

D面 Baby Needs a New Pair of Snakeskin Boot

1 オーバーチュア~マイ・ルーツ
1)マネー 2)メッシンウィズアキッド

2 ダスト・イン・ザ・ウィンド

3 ピス・アローン

4 ハロー・イッツ・ミー

5 サム・フォークス・イズ・イ-ヴン・ホワイター・ザン・ミー

6 ユー・レフト・ミー・ソア

7 スラット

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俺「今月はトッド・ラングレンを書いてみるんだ」

妻「へぇー、ドルフ・ラングレンって歌うんだ?」

俺「いや、ドルフ・ラングレンは歌わないだろ」

妻「ロッキーの敵だよね」

俺「いや、ドルフじゃなくてトッド」

妻「ふーん、どんな歌、歌ってる人?」

俺「(有名曲「ハロー・イッツ・ミー」をかける)これが1番ヒットしたかなー?」

妻「パパにしちゃ珍しくさわやか系だね。なんて歌?」

俺「ハロー・イッツ・ミーって歌」

妻「訳すと?」

俺「もしもし?オレオレ!」

妻「.....詐欺じゃん」

俺「.....確かに」

TODD RUNDGREN https://bit.ly/3xKhcxP

 1980年12月8日。ジョン・レノン(40歳)はNYの自宅前で、マーク・チャップマン(25歳)という男に背後から拳銃で5発撃たれ絶命しました。

 レノンの狂信的なファンの犯行だろうと当初は思われていました。

 しかし、捜査が進むに連れ、状況は変わって行きます。

 チャップマンが現行犯で逮捕され手錠をかけられた写真。彼が着用していたTシャツは、レノンでもビートルズでも無く、トッド・ラングレンのものでした。

 そして滞在していたホテルの部屋からは、パスポートなどとともに、トッドの2ndアルバム「バラッド・オブ・トッド・ラングレン」のカセットも発見されました。

 うん?おかしくないか?

 マーク・チャップマンは、確かにレノンのファンでした。当初の自白では「偉大なジョン・レノンを殺せば自分は彼より偉大な存在になれる」と話しています。ただ、「レノンはただの金満野郎で詐欺師だ。だから殺した」などとも言い出したり、供述は一貫しませんでした。

 しかし、トッド・ラングレンの話しになると、チャップマンはトッドのほぼ全ての楽曲を、歌詞も間違えること無く覚えており、彼の音楽がいかに自分を支えてきたかを語るのです。

 接見した記者は「それはもう崇拝と言えるものだった」と印象を語っています。そう、彼はレノン以上にトッド・ラングレンに心酔していたのです。

 ここでロックファンが思い出すのは、この事件の6、7年前にあったトッドとジョンの確執です。

 1973年前後、ベトナム戦争真っ直中のアメリカで、ジョン・レノンは、ミュージシャンというより、反戦活動家として、そしてヨーコとフェミニズム推進運動家としての話題が多い状況でした。

 一方のトッドは、若き名プロデューサーとしての名声プラス、本作「サムシング・エニシング?」のヒットで、シンガー・ソングライター(本人はこの呼称が大嫌いらしいけど)としても名を馳せていた時期です。

 当時、自身の浮気が原因で、ヨーコと別居していたレノンは、酒とドラッグに溺れた生活をおくっていました。その醜聞はたびたびゴシップ誌の記者にすっぱ抜かれ、例えば、クラブで泥酔し生理用品をおでこに貼り付け馬鹿騒ぎし、それをたしなめたウエイトレスとつかみ合いの大喧嘩になったとか、どうしようもないものばかり。

 イギリスの音楽誌メロディ・メイカーのインタビューを受けたトッドは、ジョン・レノンについて聞かれ、「彼は革命家をきどっているが、馬鹿な騒ぎばかり起こしていて、目立ちたいだけなんじゃないか?ウエイトレスを殴って何が革命なんだ?」と皮肉たっぷりに答えます。

 それを知ったレノンは、「僕はウエイトレスを殴ったりしていない。クラブで酒を飲んでハメを外した夜もあるだろうけど、それの何が悪いんだ?君のヒット曲「アイ・ソー・ザ・ライト」なんか「ゼアズ・ア・プレイス(ビートルズの曲)」のパクリじゃないか」などと同誌面で言い返します。

 両者の言い合いは何週か続きました。トッドにしてみれば「革命家だと言うのなら、ふるまいも品性が求められるべきだ」という至極真っ当な思いからだったようですが、そもそもジョン・レノンは革命家じゃないし、どっちもどっちな話しですよね。

 こんな経緯があり、マーク・チャップマンの素性が明らかになるにつれ、彼は、崇拝するトッドに噛みついたレノンを許せず凶行に及んだのでは?などという憶測が噂されました。

 トッド自身は「レノンと僕の小競り合いが、チャップマンに何らかの影響を与えたとは思っていない」とコメント。そして、そんな憶測はチャップマン自身の告白でピリオドを打ちます。

 「あの時、殺すのはジョンでもトッドでもよかった」

 日本ではジョン・レノンとトッド・ラングレンが並列で語られることがピンと来ないかもしれませんが、欧米ではトッド・ラングレンというミュージシャンがいかにリスペクトされているか。こんなエピソードで感じていただけたでしょうか?

 キツイ話しですけど。

TODD RUNDGREN https://bit.ly/3qjt9rG

 1948年、フィラデルフィアで生まれたトッド・ラングレンはラジオから流れてくるソウルミュージックとビートルズやザ・フーなどのロックに心奪われ、16歳で友人達とバンドを結成、ギターの腕前を上げ、19歳でナッズというバンドのギタリストとしてデビューします。

 しかしバンドは鳴かず飛ばずのまま解散、路頭に迷っていた時に、その音楽と楽器に対する造詣の深さを買われ、当時東海岸のミュージックシーンの中心地だったウッドストック郊外のベアズヴィルスタジオのハウスエンジニア兼プロデューサーとして雇われます。トッド21歳の時でした。

 そして転機となる仕事が同年に舞い込みます。ボブ・ディランのバックバンドから独立し、ヒットアルバムを連発していたザ・バンドの新作のレコーディングです。

 ヒットが義務付けられているこのスーパーバンドは、方向性に煮詰まり、また一人一人が卓越したミュージシャン達だったために我が強く、レコーディングを始めようとしてもメンバーが揃わないなど「気が向いたら演るからほっとけや」って雰囲気。

 血気盛んなトッドは、作業を進めないガース・ハドソンに「早くやれ老いぼれ!」と悪態をついたり、それに腹を立てたレヴォン・ヘルムとまさに一触即発になったりとバンドと対立。

 そんな中、ロビー・ロバートソンが、トッドが録ったベーシックトラックの見事さと、自分たちに物怖じせず「こうすべきだ」と断言してくる態度で「この兄ちゃんタダもんじゃないかも?」と思い直し、バンドは除々に「この若造にまかせてみるか」の雰囲気に。

 結果完成した3rdアルバム「ステージ・フライト」は、前2作と同様ゴールド・ディスクを獲得。

グッと「普通のロック寄り」になったそのサウンドは賛否両論ありましたが、若干21歳の「ベアズヴィルの天才青年」の名は全米に知れ渡りました。

 ここでトッドがプロデュースしたバンド、アーティストをざっと列記します。

 上記のザ・バンド、バッド・フィンガー、グランド・ファンク・レイルロード、ニューヨーク・ドールズ、スパークス、ミート・ローフ、パティ・スミス、チープ・トリック、チューブス、ホール&オーツ、XTC、トム・ロビンソン・バンド、アリス・クーパー、高野寛、レピッシュなどなど。

 錚々たるリストです。

 ちなみにジャニス・ジョプリンの遺作となった「パール」も当初トッドがプロデュースしていましたが、完全に若造となめて、言うことをきかないバンドと、とんでもない気分屋のジャニスとの作業は全くかみ合わず、交代させられています。

 どのバンドもトッドプロデュースでヒットさせているのに、一部例外を除いては、2度目を依頼していません。不思議に思いませんか?

 皆さん口をそろえておしゃるのが、トッドが「天才」であることは認める。だけど、その自己中心的で高圧的な物言いと、自分の欠点をあぶり出され真っ正面から指摘されるやり方に、こっちはズタズタになる。けど、できあがった作品は確実にヒットする。だけどもう(仕事では)二度とかかわりたくない(笑)

 本作「サムシング/エニシング?」は、トッド3作目のオリジナルアルバムです。

 ベアズヴィルスタジオで働き始めた時は、自分は裏方で、アーティストとして活動するとは「微塵も考えていなかった」そうですが、仕事の合間合間で録り溜めていた曲達を「アルバムを出してみたい」と「冗談半分で」レーベルのマネージャーに話したところ、「いいんじゃない」とまさかの返事。

 デビューシングル「ウィー・ガッタ・ゲット・ユー・ア・ウーマン」がこれまた「予想外」のヒットに恵まれ、レコード会社側もアーティストとしてのトッドを認め、これまで2枚のアルバムをリリースしていました。

 LAで本作のための曲作りをしている頃も、数々のプロデュースとエンジニアリングのため、全米中を飛び回っていましたが、曲作りは完全に「日常生活の一部」になっており、信じられないスピードで(「アイ・ソー・ザ・ライト」は20分で仕上げたらしいです)次々曲が生まれる状態!

 ふと気が付くとアルバム2枚分の曲が出来上がっていたそうで、けど、レコーディングに取れる時間はせいぜい3週間程度。これからミュージシャンを集めて作業開始しても、マスタリングまでとてもじゃないけど間に合わない。

 なら自分で全部やっちゃお、って思うのが凄いけど(笑)ドラッグの「おかげ」なのかな?

 本作はドラムから鍵盤、ギター、ベースはもちろん、バックコーラスまで全てトッドが一人で多重録音で作り上げました。これまでもコーラスを自ら重ねる(山下達郎みたいなやつね)ことはやっていましたが、全パートをというのは初めての試み。

 のちにインタビューで「世界初の一人多録アルバムですよね」と言われた際には、「いや、ポール(マッカートニー)がやってるよ」と答えていますが、一聴してその手間は比較になりません。

 しかし、アルバムの3面分を録音した頃、LA北部を大地震が襲います。作業の中断を余儀なくされたトッドは、テープを持ってNYへ発ち、同時に、全パートのミュージシャンを揃えておくようにスタジオに依頼します。

 「元々一人で録るのに飽きていたし、タイミング的には結果オーライ」だったそうですが、本作のD面だけは、NYのセッションミュージシャン達とのスタジオ一発録りとなった経緯は、こんな理由がありました。

 参加ミュージシャンのクレジットを見ると、ギターのリック・デリンジャーや、ランディ、マイケルのブレッカーブラザーズ(当時はまだ未結成)などもの凄いことになっています。

 このD面、歌い出しのミスや、カウントなどそのまま録音されて、和気あいあいと「全曲通してライブ録音」されたように聞こえます。

 が、実際は1曲毎にクレジットも変わっており「そう聞こえる演出」がされているだけです。

 そしてD面が一番「音がいい」

 A~C面の一人多録の曲群は、もちろん曲のクオリティはとんでもないのですが、「音」に着目すると、「とりあえず最後コンプかけて慣らしました」的なね。「音の魔法使い」にしちゃざっくりだなーという印象を受けます。

 各面にはサブタイトルが付けられていて

 A面 「キャッチーなメロディのブーケ(花束)」  極上のポップナンバー達

 B面 「知的なサイド」 次作を思わせる実験的な曲達

 C面 「ヘヴィなやつ」 ディストーションギターのハードナンバー

 D面  「新しいヘビ皮のブーツが必要」 スタジオライブレコーディング

 D面のサブタイトルは、よくわかりませんが、圧倒的に支持されたのはA面とD面

 シングル「ハロー・イッツ・ミー」はビルボード5位の大ヒット。「アイ・ソー・ザ・ライト」も16位まで上り、その後ジャンル問わず多くのアーティストにカバーされるスタンダードとして愛され続けています。アルバムも2枚組としちゃ29位は大健闘です。

 とにかく「メロディ」と「ハーモニー」が刺さります。歌っていることは、正直女々しいラブソングがほとんどで、中身なんか無いって言っちゃいますが、甘く線の細いトッドの歌声には見事にはまっています。

 2021年の「ロックの殿堂」入りが決定したトッド。「僕自身は正直関心無いけどファンのことを思うと嬉しい」ってのもトッドらしいコメント。このアルバムがリリースされた時、さんざん比較されて本人はうんざりしていたキャロル・キングと同時に殿堂入りってのも、何かの因縁かもしれません。

                                                            ケイズ管理株式会社 西内恵介