有限会社ビィクトリーポーク 代表取締役 中岡 勝 インタビュー

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 父とふたりで施設を増築?~文字通り『自分の手で』作り上げた新たなステップ

 

― 中岡社長ご自身が家業を継いで養豚家になろうとお決めになったのは、何かきっかけがありましたか?

中岡「高校3年生で母親が亡くなって、上の兄弟はみんな社会人になっていました。高校3年の夏休み、親父を手伝って仕事をしていたら、先生が来たんです。何を話してるのかなあ。と思ったら、その晩、親父がね、『先生がな、母さんの遺言らしいんだけど…、お前、大学行くか?』って。

 

― 教育熱心だったお母さまの遺言ですか。

中岡「大学へ行くといっても、当時は養豚専門の大学はなかったですから、家の仕事をするなら、大学は行かなくてもいい。と思っていました。そうすると、また先生が来たわけです。母さんの遺言だからと。それで家族会議です。親父が金銭的に苦しくて行かせられないなら、兄弟で出し合って、大学に行かせよう。という話になりました。その頃はまだ子供だったから、それが大変なことだとは自分ではわからんですよね。でもそう言ってくれるなら、そうした方がいいな。と思って大学に行かせてもらうことになりました」

 

― 家族と先生の勧めで大学進学をなさった。

中岡「母親の遺言だと言って、先生が3度も訪ねてきましたからね。養豚の授業はないけど酪農大学に進学しました。当時は2部という変則短大があって、農閑期の11月から3月末までは授業、それ以外は実習という形で、勉強と仕事を両立する学科がありました。親父もそうなると、今の規模で養豚をやっていくのは難しいということで、それまでの土地を全部売って、昭和46年(1971年)に養豚規模を拡張できる場所へ移ります」

 

― 実習の期間はお家に戻られてお仕事をしていらっしゃったんですか?

中岡「夏場は豚の仕事をしていました。貧農でしたからね。当時は本当に小さい規模でやっていたんです」

 

― 当時はどれくらいの規模で運営をしていらっしゃったのですか?

中岡「母豚60頭で移ってきました。そこから徐々に100、150、200。そうすると施設を大きくしていかなくてはいけないですからね。離農した農家から施設を買って、今あるものを自分たちで建て増しして、飼育面積を倍にするんです。みんな親父と自分とでやりました。鍛冶屋に仕事を見に行って、覚えてきて、溶接なんかも自分でするんです。自分で目堀して、鉄筋入れて、生コン練って。そうやって昭和50年くらいまでは250坪の土地の建物を全部、自分たちで作っていました」

 

― プロ顔負けのお仕事ですね!

中岡「プロみたいなもんですかね(笑)。でもプロの業者は経費も時間かけないで作るでしょう。柵ひとつでも、俺たちは絶対壊れないようにガッチリ作るんですよ。昭和52年(1977年)に結婚して、その後も豚舎を作りましたが、そこから先は外注になりました」

 

― お父様からの代替わりというのは、何か機会があったんですか?

中岡「親父は、俺が結婚した年かな。『もう口出さないから、おまえやれ』という一言でしたね。あとは何も言いませんでした。建物を買う何千万の契約だといっても一切口を出さない。そりゃ失敗しますよ。業者に騙されたりしてさあ(笑)。」

 

― あ、騙されましたか!

中岡「今だったら『そんなの詐欺だべ!』って言えるけどね(笑)。その頃まだ23、24でしょ。豚舎の工事は止まる、融資は来ない。親父は後ろで見ていて、俺には何にも言わないんです。『兄貴のところへ行け』というわけですよ。その頃、長男は苫小牧で生活協同組合の常任理事をしていて、経済や建築資金に関わる仕事をしていました。父の話を聞いた兄が『そんな業者は商業道徳のルールに外れてる』と、とりなしてくれたんですね。これまで追加工事もしない。引き渡し証明書も出さないと頑張っていた業者が大人しく『中岡さんの仰るとおりにいたします』と。俺には何のことかわからなくてね。ただ、人の力というのはすごいものだな。と思いました」

 

― お兄様と、陰ながらお父様の協力があったんですね。

中岡「そうやって解決したんです。若かった当時は、社会の通常理念がどこに行っても通るものだと。正義は勝つ、ということか分かりませんけど、そういう風に思いました。今の時代はそうでもないけどね!(笑)」

 

 

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