サックス奏者 門田”JAW”晃介さん インタビュー


門田JAW晃介

体育館の床が抜けた!?バンドマン忌野清志郎との運命の出会い

― 高校時代は吹奏楽部の活動だけでしたか?

門田:中学時代の部活の顧問の先生が所属しているビッグバンドに出入りしていました。あとは、ブラスバンド以外にも中学生、高校生だけでビックバンドを作って。

― 高校はどちらでしたか?

門田:日野高校です。忌野清志郎さんの母校でもあります。ぼくが2年生から3年生に上がる年の卒業式の前日に、卒業祝いの凱旋ライブやりに来てくれたんですよ。学生と先生だけしか観られないライブで、体育館で演奏してくださいました。ライブが始まるやいなや生徒がステージ前に集まって皆でジャンプしてたら、ものの30分くらいで床が抜けちゃって(笑)

― 体育館の床が抜けたんですか?

門田:全員で一箇所に固まって一定で飛ぶから、、体育館なんてそれに耐えられる設計がされていなくて。体育科の先生もほれ見たことかって、一時中止になってどうなることかという空気になってしまったんですけど、さすがの清志郎さん。そこで一言「体育館の底が抜けたぜ!!お前らの未来は底抜けに明るいぜ!!」って盛り上げて。かっこいいですよね。

― ライブは続行できたんですか?

門田:ライブ自体はそれぞれ指定された席から離れないで聴くという条件で続行されて、一応最後までちゃんとライブはできました。後日の卒業式は10メートルくらいのブルーシートをまたいで卒業証書を受け取るというおかしな卒業式になったんですけどね。その日がバンドマンを初めて間近で観た経験でした。

― 一生の思い出ですね。

門田:それからというものバンドマンに対する無意識なうちの憧れのようなものがあったと思います。初めてみたバンドマンの思い出が体育館の底が抜けるという衝撃的なものでしたから(笑)それまで自分がやってきたジャズやクラシックとは全然違うけれど、面白いなぁと。でも、サックスという楽器が上手くなるためには、まずはクラシックを勉強して、技術を身につけたらと周りの人からアドバイスを受けて、それで国立音楽大学に進学しました。そのときは、いろいろなジャンルの良さをミックスして、自分なりの音楽を出力したいという気持ちがありました。それがPE’Zの活動に繋がったと思っています。

― 音大に進学するときは、将来音楽家になるということを明確に考えていましたか?

門田:いやぁ、漠然としていたと思いますね。音大に入った頃はどんなミュージシャンになりたいかなんて考えませんでした。清志郎さんみたいなバンドマンとして、全国を旅するみたいなのも良いだろうなとか色々と妄想していたくらいだと思います。

― 清志郎さんに触れなかったら今の門田さんはいないかもしれないですよね。

門田:そうですね。本当に不思議なご縁で。デビューしてから清志郎さんとは何度かお会いしているのですが、お元気な時に共演する機会があって、それはすごく嬉しく大切な思い出です。その時に”お前、プロフィールに日野高出身ってこと書いてないけど、もっとそこ押せよ!”っていわれて。清志郎さんはもうその日の自分のステージとかでガンガン”PE’Zのサックスは俺の高校の後輩だぜー!!”とか言うわけですよ。本当に後輩思いと言うか、母校愛とか、そういうものに溢れている方でした。なので独立したのを機にプロフィールなどには日野高のことを載せるようにしています。

技術を磨きたかった!プロの土台をつくった大学時代

― 国立音大ではどなたに師事されましたか?

門田:石渡先生という当時の教授で入る前から師事していました。先生はクラシックを教えながらも、昔のジャズの現場も経験されていた先生でした。

国立音大の校風自体は、他の音大とは微妙に違ったように思います。国立音大を出てジャズやポピュラーな音楽をやっている人って割と多いんですよね。僕らの上の世代である、池田篤さん、本田雅人さん、五十嵐一生さん、さらにその上の世代では、本田竹広さん、山下洋輔さん、中村誠一さんもですよね。なんかそういう校風があったと思います。

― きっとその頃からジャズをやりたかったんですよね。

中高のビッグバンドでジャズをやって、自分はそういう方面に進んでいきたいというざっくりとしたビジョンはありましたけど、しっかりとした技術を磨きたいというのもあって音大に進学しました。

先ほど言ったように、国立に行ってジャズをやっている先輩が多かったので、技術を磨く期間として4年間の大学生活を送って、そのあとそういう方面に行くのも良いかなと思っていました。

― では4年間クラシックを学んだんですね。

門田:そうですね、一応。最後の方は結構ヘロヘロでしたけど(笑)

― 当時から「NEWTIDE JAZZ ORCHESTRA」はありましたか?

門田:ありました。ぼくはリーダーをやっていました。ぼくらの一つ上の世代まで山野ビック・バンド・ジャズコンテストにしばらくずっと出ていなくて、何十年ぶりに復活しました。楽譜の管理とかもちゃんとできていなくて、結構ガタガタだったんですけど。ぼくらの前後が立て直すきっかけの世代ですね。結果は全然残せませんでしたけど。

― 音大だと在学中に有名になってプロ活動をする方もいるじゃないですか?門田さんはいかがでしたか?

門田:ぼくはサポートミュージシャンをやったりして、歌バンドのバックとしてツアーに連れて行ってもらったりしていました。

― その頃にはもうプロになろうと決めていたんですよね?

門田:そうですね。このまま何となくプロとしてやっていけるのかな?と。ツアーでこんな風に旅してちょっとお金をもらえたりしたけど、それだけで食っていくというと難しいし、バイトもしなきゃなぁって感じでしたね。

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