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 卒業、そして台湾へ。 ~日本語教師から証券会社社員に?

 

― 卒業後はすぐに日本を出られたのですか?

細木「はい。卒業式の次の日に台湾へ来ました」

 

― 台湾に来られたきっかけというのは何だったのですか?

細木「東京YMCAの台北への日本語教師派遣のポスターをたまたま見たんです。なんとなくこれかな?なんて。その時は特別、台湾に行きたい。と思っていたわけでなく、アフリカとかでもよかったんですが(笑)、たまたま台湾でした」

 

― すんなり決まりましたか?

細木「はい。台湾行きは応募者が少なかったんです」

 

― 細木編集長が採用になったのは、何年ですか?

細木「1985年です」

 

― 1985年の台湾は外国人が自由に出入りできた時代ですか?

細木「自由に出入りは出来ましたが、まだ戒厳令が敷かれていました。友人が王育徳さん(※日本に亡命した台湾独立運動家)の『台湾』という本をこっそり持ってきてくれたり」

 

― 当時の台湾は現在と比べて大きく違いましたか?

細木「今よりもっと素朴で中国に近い感じでしたよ」

 

― 初めて台湾に来たときの印象を覚えていらっしゃいますか?

細木「花がねえ、満開だった。こちらでは3月になるとオレンジの大きな『木綿花』が咲くんです。それを見て、南国だあ。と思いました。当時日本からは7人一緒に来て、私は台湾中部の埔里(プーリー)に派遣されました」

 

― 埔里というのは、当時、台北から移動するのも大変でしたよね?

細木「そうですね。台中からバスで2時間くらいかかりました。でも、あのあたりの印象は、今もあんまり変ってません。ご年配の方は日本語が出来ました。派遣前に『現地に日本語が話せる人が居るから、寂しくないよ』と聞いていたんですが、年代が違うので話が合わなくて。今、この年になって、こういう仕事をしていると、その世代の方のお話が面白いと感じられるんですけれどね」

 

― 埔里には何年いらっしゃったんですか?

細木「1年です。家庭教師をつけてもらって中国語の勉強を始めたのですが、埔里ではみんな台湾語を話していましたから、中国語の発音が正しいのかどうかも分からない。その後、台北へ移動を希望しました」

 

― 台北のYMCAに移動していらっしゃったんですね

細木「そうです。そこに所属して日本語を教えながら、師範大学の語学センターに通い始めました。その半年後に東呉大学日文研究所の修士課程に入りました。その時は日本語教師をしていこうと思っていたので、比較言語とかそういう方面を勉強したくて」

 

― お仕事を続けながら、修士課程に進まれて、更に日本語学を勉強なさった。

細木「修士課程に入ると、いろんなところから日本語を教えて欲しいというお話が来たので、台北YMCAは1年だけ所属して、その後は大学内の語学センターとか、専門学校で日本語を教えていました」

 

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台北ナビプラザ

 

 

― 海外生活には慣れていらっしゃったと思いますが、、心が挫けそうになる瞬間はありませんでしたか?

細木「うん。ありましたよ。埔里に居た時にうつ病になりました。自分では分からなかったんですけど、生徒さんにお医者さんが居て『先生、一度日本へ帰ったほうがいいよ』と言われました。台湾って食べ物がおいしいでしょ?台湾に来た頃、何でもよく食べて太ってきてたのが、どんどん痩せてきて。もう食べられない。何をしても面白くない。でも、1年は台湾にいなくちゃいけない。それがすごくストレスになっていたみたいで」

 

― どうなさったんですか?

細木「ちょっと日本に帰りました。帰ったときに父が『帰りたくなったら、いつでも帰ってくればいいじゃないか。』と言ったのを聞いて、そうだよね! と思って、それで治りました。仕事は1年契約というお話だったので、頑張りすぎたんでしょうね。その後は、辛くなったらいつでも帰ればいいや。と楽になりました」

 

― その後、日本語教師のお仕事は何年続けていらっしゃったのですか?

細木「5年間ですかね。1990年頃まで続けていました」

 

― 日本語教師をお辞めになったのは、何か理由があったのですか?

細木「現地で結婚したんです。日本語教師を辞めてからは、日本人が経営するインテリアデザインの会社を手伝ったり、たまに頼まれて日本語を教えたりしていました。その頃、前の仕事の同僚が日系大手證券に勤めていたんですが、彼女が結婚して辞める時に私を紹介してくれて、1990年からは證券会社に勤めることになります」

 

― 日本語教師から証券会社社員に! 日本では畑違いのように感じますが?

細木「そうですね。でも、少しだけインテリアデザインの会社に居た経験がありましたから。結婚してからは主婦でもしようかな。と思っていたんですが、外に出て働いていたほうが社会性も身に付くし、中国語も話せるようになっていたのでもったいないかなと。主人も応援してくれましたしね」

 

― ご結婚して、お子様が生まれて、その間もずっとお仕事を続けていらっしゃったんですね

細木「そうですね。当時台湾支社は、香港支社の下で正式な支社になる準備を進めているという感じでしたので割と自由がききました。最初は秘書として入社して、その後は人事総務の仕事をしました。7年働いて、1997年に辞めています。当時、日本のバブルははじけていましたが、台湾バブルの時期だったので、仕事は面白かったですよ」

 

― 意外なご経歴です! 台湾経済に勢いがあった時代ですね。そこでなぜ、お仕事をお辞めになったんですか?

細木「子供もまだ小さくて、子育ても仕事も中途半端な感じで、自分で嫌になって。とにかく1回リセットしよう。と思って辞めました。辞めてから、これから私、どうしよう。というときに、近所に住んでいる日本人の奥様から『中国語を教えてくれる先生を探してくれない?』と言われて。それをきかっけに会社を作ったんです。語学教師の派遣の仕事をはじめたんですね」

 

― 中国語を習いたい日本人向けに、中国語教師を派遣をする会社ですか?

細木「そう、語学教師の派遣の仕事です。自宅で出来るので、子供がここらへんで遊んでるときに、コンピューターを使って、色々やってね。その間に「Sumika」というフリーペーパーを仲間と一緒に作ったりしていました。そのうち、台湾のことを文章に書いてください。と依頼が来るようになって、それが台北ナビに繋がっていくんです」

 

― そういうご経歴があって、『台北ナビ』に繋がっていくのですね。

細木「台北ナビはね、最初、好きな人達が楽しみながらはじめたような雰囲気があってね(笑)。今思えば、いい環境で仕事と子育てができたかな。と思います」

 

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若い女性達からだけでなく、鉄道ファンからも関心が寄せられている。台湾鉄道を特集した雑誌も。

 

 

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