実は,避けてきたことがあるのです。
それは,このコラムにおいて,『悪の社長』を取り上げること。
しかし,これまでも触れてきましたように,映画の中における社長の役どころ,これはもうダントツで悪役が多いのです。こうなりますと,映画の中の様々な社長の姿に焦点を当てるという本コラムの性格上,悪の社長が登場する映画のご紹介は,避けて通れません。
他方,社長が悪役として映画に登場する機会が多いということは,とりもなおさずピンからキリまで『悪の社長』が存在することにもなります。つまり悪の社長の中にも,質の高低がある訳でございますね。
折角だから,極上の『悪の社長』をご紹介したい。そう考えましてあれこれ思いを巡らせましたところ,おりました。とびきりの悪社長。
『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』
1997公開 英米合作映画
ロジャー・スポティスウッド監督
おなじみのイギリス諜報部員・007が活躍するシリーズの第18作。1997年のイギリス・アメリカ合作映画です。
《作品あらすじ》
南シナ海。公海上を航行中のイギリスのフリゲート艦が突如中国側の戦闘機に領海侵犯の警告を受け,撃沈。その乗組員も全員殺害されてしまう。
ジェームズ・ボンドが所属するイギリス諜報組織・MI6が事実確認に追われる中,メディア王 エリオット・カーヴァーの会社が発行する新聞『トゥモロー』がその事実をスクープ。その事実を知った英国首相は中国に向けて艦隊を出動させる。
一瞬触発の危機の中,果たしてジャームズ・ボンドは事態の背後に隠された陰謀を暴くことができるのか?
長く続く007シリーズの中でも,本作『トゥモロー・ネバー・ダイ』はいくつかの部分で目新しい要素が加えられています。
1つは,アクションに本格的にCGやデジタル合成が使われ,より派手になったこと。ベトナムの街中を舐めるように襲い来る戦闘ヘリとの戦いのシーンのとんでもなさは,デジタル合成の賜物と言えましょう。
2つめには,ボンドガール。
本作のボンドガールはミシェール・ヨー。これがなぜ新機軸なのかと申しますと,今回のボンドガール,ものすごく戦います。
それもそのはずで,彼女はアクション女優。『ポリスストーリー3』では,ジャッキー・チェンに負けないほど危険なスタントなしのアクションに挑んだ実績があります。
本作でも,明らかにこれまでのボンドガールとは一線を画する切れのいい殺陣を見せてくれます。
そして3つめは,敵の黒幕が知略に長けた『社長』であること。
今回の敵は,世界の報道を牛耳るメディア王。荒唐無稽な世界征服計画ではなく,あくまでもインテリジェンスに絡め手を用いて目的を達成しようとします。
小さな仕掛けを使って状況を上手く操作し,中国とイギリスの間に衝突を生みだす。そしてそれをいち早く報道する…。情報操作によってじわじわと思い通りに事を進めようとする様は,007シリーズのこれまでの敵役とは異なります。
サーカスの大砲に核爆弾を仕込んでテロを起こそうとする将軍(007オクトパシー)などとは各が違います。
あくまで冷静にして冷徹。そして危険なテロリストまでも手懐ける手腕と,自分の企業をさらに大きくしようという飽くなき向上心。まさに,良心のタガが外れた,会社想いの野心家です。良心さえ壊れていなければ,これほど頼りがいのある社長もいないかもしれません。
この社長,実はモデルと思われる人物が存在します。
それがロバート・マクスウェル。イギリスの実業家で,まさにこの映画の敵役と同じく,『メディア王』と呼ばれた人物です。
彼は,新聞社は勿論,科学雑誌出版社やレコード会社,テレビ局までを買収してひとまとめとし,『メディア帝国』を築き上げました。
かのイギリスの新聞『デイリー・ミラー』までを擁した巨大な帝国の長でしたが, しかし彼は1991年に突然の死を迎えます。
カナリア諸島の沖合で,自らの持つ豪華ヨットから転落。
この突然の死には,様々な憶測が未だに付いて回っているようです。モサドのスパイ説,強引な経営による多額の借金…。ある意味,007本編よりもスキャンダラスで,謎に満ちた人物と言えるのかもしれません。
本編ラストに,諜報機関MI6が事件隠ぺいのため,とある情報操作をするのですが,この情報操作の内容が強くロバート・マクスウェルの影を感じさせます。イギリス人はニヤリとさせられたのかもしれませんね。
そんな007史上もっとも知的な悪の社長を演じるのは,
イギリスの俳優ジョナサン・プライス。
アメリカにおける演劇・ミュージカルの栄誉ある賞,トニー賞も授与されており,演劇人としても一流の演技派です。
『パイレーツ・オブ・カリビアン』等といった大作に出演すると思えば,ミュージカル映画『エビータ』では甘い歌声を披露,そしてモンティパイソン出身のテリー・ギリアム監督作品の常連でもあり,中でも『未来世紀ブラジル』では強烈な印象の主人公を演じました。
知的な風貌を生かした演技は繊細にして冷酷。憎まれ役ではありますが,最後に打ち負かされた時に『やった!』と胸のすく思いが出来るのは,ひとえに演技のうまさによるものなのでしょう。
シリーズ上,最も知的な社長がボンドを苦しめる新機軸の007。
『007 トゥモロー・ネバー・ダイ』をご紹介いたしました。
(2015.9. 文:黒田 拓)