㈱インデックス・コア 代表取締役 麻生 榮一 インタビュー

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『自分の好きなことをやれ』 映画浸りの少年時代

 

― それではここで、麻生社長のプロフィールについて、お聞かせください。

麻生「生年月日は1950年4月9日、札幌出身、A型です」

 

― 小さい時はどんなお子さんでしたか?やっぱり映画好きの少年だったんでしょうか?

麻生「当時はね、毎週日曜日は父親と映画館に行ってました。美空ひばりがまだ3歳とか5歳の子役時代でね。ジョン・ウェインが当時、出てたかな。西部劇とかね。娯楽ってそれしかなかったんですよ」

 

― 映画の黄金時代ですね。

麻生「そう。子供時代は常に映画館に行っていたっていう記憶があって。その後も西部劇やチャンバラ。中学生になったら、東宝の怪獣映画を観たり、アート系の映画を見始めました。たまに学校サボってね。僕は結構、真面目な方だったんですけど(笑)。当時のアート系っていうと、イタリア映画やフランス映画だったんですよ。狸小路の有楽館の地下に名画座があったんです。そこで学校が終わってからフェリーニパゾリーニの映画を観てました。それと同時に若松孝二監督。彼は昔、生計を立てるためにピンク映画を作っていたんですけど、彼が監督した変わった成人映画を観に行ったりもしました」

 

― 学生時代に成人映画を観に行ってましたか!

麻生「そう(笑) こうやって、ちょっと顔隠して「大人1枚。」なんて、わざわざ自分で言う必要ないのにさ、言ってからしまった!なんてね(笑)」

 

― 好きな言葉はなんですか?

麻生「『自分の好きなことやれ』ですかね。『自分で責任をとるなら、何やったっていいぞ』って言ってます。例えば、うちの子供たちは、お父さんとかお母さんって呼ばないんですよ。別にアメリカの真似をしているわけじゃないんですが、小さい頃からニックネームで呼ばせてたので。そのうち、朝食にみんな違うものを食べるようになって。それぞれが食べたいものを食べてる。息子が放漫責任主義って言ってたなあ(笑)」

 

― 『責任とれるなら、自由にやれ』というのは、言われたことだけをするんじゃなくて、自由に発想して新しいこともやってみろ。という意味もありますよね。

麻生「そうです。そういう人が少ないだけでね。『右行け』って言ったら、みんなで右に行って。何かあったら『あんたが右って言ったじゃないか!』って(笑)。右か左か自分で決めなさい。っていうことです。昔のやくざ映画で、道に迷ったときに、サイコロ振って丁か半かで決める。っていうシーンがありましたけど、前にある占いの先生が言ってたんです。右に行っても左に行っても同じなんだって。多少近道だったり、遠回りだったりするけど、結局、行くのは一緒。人間は迷うのが一番辛いから、選択の根拠がないことは、丁半で決めるのが一番いいってね」

 

― そうですね!遠回りでもとにかく歩きださないと。

麻生「その道を行ってみて、ダメなら戻ればいいじゃない。って、俺がものすごく苦手なこと。行った道を戻るっていうのが、一番、嫌なんですよ。若いころは、すごく損した気持ちになっていたんだけど、今、畑をやるようになってね」

 

― 畑ですか!?

麻生「そう。素人が畑やってると、色んな失敗があるんですよ。でも捨てるわけにいかないでしょ?なんとかして戻して、来年こそ間違いないように。ってやるようになったんですよね(笑)」

 

― いいお話ですね。土や植物に触れながら、苦手だった『戻ること』を習得なさっているんですね。

 

 CMプロデューサーって何? 『インデックス・コア』起業秘話 

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2013年完成 『茜色クラリネット』 完成披露上映会 (画像元:コトニ夢映画制作プロジェクト)

 

― 続きまして、お仕事のお話を聞かせてください。麻生社長は、先にお話しを伺いました出版関係の『コア・アソシエイツ』と、CM・映画制作の『インデックス・コア』、2つの会社で代表取締役をなさっています。麻生社長ご自身がメインで関わっていらっしゃる『インデックス・コア』のお仕事について教えてください。CM制作会社のお仕事というのは具体的にどのようなお仕事ですか?

麻生「テレビCMであれば、PRしたい事、テーマ、予算などを鑑みて企画を立てます。その輪郭ができたら、次は監督が、どういう材料で、誰を使って、どこで、どんな演出で撮影するかを決めます。内容が決まったら、それに必要なスタッフを集めます。そして、撮影本番、編集、CM完成までを一括でうちの会社が引き受けています」

 

― CM制作のお仕事をメインとして、映画制作にも関わっていらっしゃいますよね。

麻生「映画の方はお金にならないんだけどね(笑)。最近、プロデューサーとして関わった作品『茜色クラリネット』では、僕がスポンサー探しをして、スタッフにはちゃんとギャラをお支払してます。でも自分の報酬は無し。事業としてはプラスマイナスゼロだけどね。会社で受けて、仕事としてやっています」

 

― 若手育成の事業として、映画制作にも関わっていらっしゃるんですね。先程も伺いましたが、映像業界に入るきっかけは、『技』を学ぶためにアルバイトとしてお入りになったそうですが・・・

麻生「そう。最初はね、1年くらい居ればなんとかなるかな。なんて思っていたけど、1年や2年いたからといって、学べるものではなかったんです。それぞれの部署にプロフェッショナルがいて、全部をマスターする必要はないにしても、演出だけでも3年はかかる。基本はできても、応用が必要なんです。毎日、現場が違うわけだからね」

 

― 入られたときはカメラマンだったんですか?

麻生「最初は制作。でも当時は人数が少なかったから、カメラも回せって言われました。それまで僕が扱っていたのはフィルムカメラだったんだけども、その当時CMに使われていたのはビデオカメラで、スイッチ操作なんかはVE(ビデオエンジニア)っていう技術者がするんです。フィルムのカメラと違って自分でシャッターが操作できないわけ。カット割りも考えてカメラを回すんだけど、勝手が違ってね。ビデオはわりと才能がなかったかな。当時ビデオカメラって性能的に遅れてたんですよ。16ミリのカメラは軽くて10キロもなかったんですけど、ビデオカメラは大きくてね。暗さに弱くて、光量が足りないと色が出なかったんです。だから全部、照明で照らさなくちゃいけない。ピカピカの舞台みたいな照明でね。映画って光と影で作るものだから、ずいぶん違いました」

 

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1980年頃の麻生社長 (ご本人Facebook より転載)

  
― プロデューサーになられて、その時に初めて『この仕事、向いてるぞ!』って思われたんですか?

麻生「そう。最初から最後までを見通す。企画から完成までを仕切るっていうのが向いてたんだね。でも、当時、CM業界にプロデューサーという役職は存在しなかったんです。名前だけはあったけど、監督とプロデューサーが事実上、兼務だったから。札幌のCM業界でプロデューサーとして業務を確立したのは、僕が早い方だったと思います。だって最初、みんなお金払ってくれなかったから(笑)。『監督ならわかる。プロデューサーって何の仕事するんだ?』って」

 

― 第一人者ですね!

麻生「うーん。そうやって頑張ってきたから、少しずつ認知されるようになって、今は、業界も変ってきましたね」

 

― プロデューサーというお仕事と、社長というお仕事は共通する部分も多いように思われます。その後、会社を興して独立されるのが30歳の時ですか。

麻生「最初はコア・アソシエイツという出版の会社を作って、その一部門としてCM部門を立ち上げました。数年後にCM制作会社インデックス・コアとして独立させました」

 

― CMのお仕事が軌道に乗ってきたからですか?

麻生「それはね、勤務形態が全く違うから。CMの方は残業、徹夜が当たり前だからね。給料形態を一緒にしたら、会社が潰れちゃうよ(笑)」

 

― CM制作のお仕事は最初から順調でしたか?

麻生「そうだね。最初は3人くらいでやってたから、結構忙しかったです。当時、忌野清志郎さんにご出演いただいたCMが北海道で評判になって。自慢じゃないんだけど、お正月明けて会社に来ると、部屋中がファックスの紙で一杯になっていてね。ロールを換えたら、どんどんメッセージが吐き出されて止まらないんだよ(笑)」

 

― すごい!大人気の制作会社ですね。そこから順調に会社が大きくなって。

麻生「そうですね。5年前に分社して、会社形態は変りましたが、CMの仕事は今でも続けてます。インデクッス・コアの事務所もそのまま残してありますが、事務仕事はこちらの新しい事務所でしています」

 

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