株式会社 菅原組 菅原 修 社長インタビュー

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 海の土木のエキスパート、地域を育てる ~建設業者と漁師の以外な関係

 

― 菅原組では創業当時から海洋土木のお仕事をしていらしたんですか?

菅原「最初は海をやってはいなかったんです。林道とか、色々やっていたんですが、たまたまその地区の海をやっていた会社が、一社倒産、一社辞めてしまって。時の函館土木現業所の所長さんが『海やるヤツ手挙げろ』って。その当時、海はリスクがすごく高かったんです。一度時化ると何もなくなっちゃう。その時にこの会社が手を上げて、そこから海の方へ方向転換したんです」

 

― 陸から海へ。リスクの高い現場へ新規参入なさるのは大変でしたでしょうね。

菅原「当時の建設業は資本がないとね、新参者は中々仕事が取れない。ずいぶん苦労したという話は聞いています。昔の建設現場は荒くれ者を集めて仕事してますから、色々と大変なことがあったでしょうね」

 

― お父様の次は、お兄様が社長をしていらっしゃったそうですね。ご兄弟は何人ですか?

菅原「兄貴2人と妹が1人います。去年の6月まで長男が社長をやっていて、6月から私に代わりました。長男と三男の私が現場上がりでね、次男は別の職業から入ってきたので、常務として仕事をしています」

 

― 菅原社長が東京から戻ったときには、お兄様は既にこちらの会社にいらっしゃったんですか?

菅原「そうですね、私より2年くらい早く帰ってきていました」

 

― 兄弟がそれぞれ自然に函館へ戻り、一緒に仕事を始められた。その時はスムーズに合流されたんですか?

菅原「ええ、私も兄も現場に出てましたから。兄弟仲はいいですね。私はこちらに戻ってきてからすぐ結婚して、10年間、松前のほうの現場に出ていました。昔の親父みたいなもんです。休みじゃないと帰ってこられない。娘に泣かれた時はしんどかったですけどね(笑)」

 

― それはお辛いですね。ここから松前までは移動時間がどれくらいかかりますか?

菅原「2時間です。当時の現場は朝が早かったんです。朝6時には仕事が始まる。休みにこちらへ帰ってきても4時になったら出ていかなくちゃならない。日の出から日没までが仕事です。夏は随分長い時間働きました」

 

― 日中、身体を使ってお仕事していらっしゃいますから、肉体的にもお辛かったでしょう。

菅原「でも、子供と一緒にいたいから、眠れないし、帰って来たいし。新婚旅行も行けなかったんです。当時の現場の親分が車の免許が無かったんで、『お前が居ないとどこへも出て行けねえ』って言われてね」

 
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― 東京から函館へ戻られてすぐに忙しくお仕事を始められたんですね。菅原社長がこの会社に入られた時は、既に海の建築のお仕事をしていらっしゃったんですか?

菅原「そうです。海洋土木が専門の建設屋です」

 

― 海洋土木を具体的にイメージするのが難しいのですが、どんなお仕事をなさるんですか?

菅原「港作りが主な仕事です。それから、漁礁という魚の棲家を海に入れる。テトラポットみたいなものもそうですし、あそこにあるの見えますか?」

 

― 窓から見える鉄塔のようなもの、あれも漁礁ですか?

菅原「そうです。あれが魚の棲家になります。あれはでっかいクレーン船じゃないと付けられないんですね」

 

― 当時の現場と、現在の現場とでは大きな変化がありますか?

菅原「まず機械が違います。当時は大きいクレーンがなかったですから。海の中に型枠を沈めるんですが、沈めるときにクレーンが無いので、ドラム缶の上に型枠を置いて、陸から海の中に運んで浮かべてから、ドラム缶を切り離す。というやり方でした。私が来て1年くらいでクレーンが出来てきて、その後は楽になりました。当時のリスクたるや『型枠を入れました。時化ました。無くなりました』、そういう状態です。ただ、うまくいくけば、とんでもなく儲かりました。今は難しくなくなった分、儲けも半分(笑)」

 

― 機械の性能向上にも助けられながら、特殊な技術を持つ専門家としての『海の菅原組』が確立していくのですね

菅原「そうですね。昭和54年にクレーンが付いている船、起重機船を先代が作って、そこから船は持ち続けています。そこから海専門の菅原組、ということでやってきました」

 

― 函館以外の地域、どこの港町にもそれぞれ海洋土木の会社があるということなんでしょうか?

菅原「地区ごとにあります。会社の規模が大きくなると、海だけという会社は少なくなります。土木全般をやっていて、海が強いという会社になる。札幌で言えば勇建設さんとか、紋別の西村組さん、稚内の藤建設さんとかですね」

 

― 菅原組は函館以外の海でお仕事することもありますか?

菅原「船だけ貸したり、船を出して他所の現場に応援しに行くことはあります。船だけなら静岡まで仕事しに行ってます。あそこに会社方針が掲げてあるんですけれど、今までは『海洋土木、地域No.1』と書いてありました。社長が私に代わってから『北海道No.1』にしたんです。言わないと変っていかないのでね(笑)」

 

― 海の仕事というのは、何かに左右されて増えたり減ったりするものですか?

菅原「全体的にみると減っています。この近辺、渡島、檜山は漁港の数が多いんですが、各地の港は、ほぼ100%完成していて、新規の港作りの仕事は無いです。ただ、仕事が完全になくなることはないかなと。コンクリートですから、劣化したものを直していかなくてはなりません。仕事は減っているけれど、それにあわせて建設会社が減っているかと言うと、そうでもない。生き残るために特化していかないといけません。それで菅原組は海に特化しました。海の戦車である船を抱えて、戦車と人間が居ればどこへいっても仕事できる」

 

― 北海道でいうと、渡島、檜山地域の漁港が一番大きいですか?

菅原「規模は平均化してます。漁師さんが少なくなっているので、港の数のわりに漁獲は少ないです。それを今、何とかしなくちゃならない。建設業者も漁業者さんと一緒に考えなくてはいけないと思って、昆布の養殖を始めたんです。以前、松前の方で昆布の養殖施設の建設をうちでやらせてもらったんです。そこには後継者が居なくて遊んでる施設が結構あったんですよ。それで組合にお願いしてその施設を使わせてもらって、うちの会社で昆布の養殖をやっています。採算が合わなくてもボランティアのつもりでやってます」

 

― 地域の活性化につながれば。ということですか。

菅原「漁師さんたちの仕事が活発にならないと、我々の仕事も無いんです。港を使わないと、海洋土木の仕事もないと思っています。なんとか一緒になって創りださないとなんないな。と思っています」

 
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