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円高・口蹄疫 ~台湾・日本を繋ぐ食品業界に歴史あり

 

― お仕事の方にお話を戻しますね。台湾からの日本向け食品輸出の草分けとなった『台湾健康食品』へ2度目の出向をされた勝野さん。その後はどういったお仕事を手がけられたのですか?

勝野「今、円安ですけれど、この前の円高の頃、1980年代くらいかな。その頃から、台湾国内向けの販売を始めました。というのは、円高になった為替の問題で台湾から日本への輸出が難しくなったと同時に、台湾の経済が成長して消費国となりました。そこで、日本の企業がドンドン海外進出した時代でもあり、台湾にも日本の大手チェーン店が開業するようになります。

 

― 台湾の国内向け製品というのは、具体的にはどういったものを販売されていたのですか?

勝野「ファミリーマートの台湾第1号店が開店するときに、うちを訪ねてくれて、是非、(台湾の店舗で)日本の味のソーセージをやりたい、ということで、台湾国内販売向けのハム、ソーセージの販売を始めました。続いて、日本のハンバーガーメーカーさんやカフェがこちらに入って来きます。日本のハンバーガーには牛肉が入っていますが、台湾では牛肉を食べない人もいるので、その配合を相談して作ったりしました。日系コンビニエンスストアの中華まんなども手掛けていましたから、えび、野菜に加えて台湾国内の日系外食産業への畜産加工品販売が3本目の柱となりました」

 

― その後、その台湾健康食品という会社を発展的解消して、現在の会社をお作りになった経緯をお聞かせくださいますか?

勝野「まず最初に、『むきエビ』が獲れなくなったんです。何故かというと、尖閣諸島問題。あそこが漁場だったから獲れなくなっちゃった。その後でブラックタイガーエビに病気が出た。種類として病気が出やすい。弱いんですよね。うちの会社では養殖から寿司エビの加工、てんぷら用の伸ばしまでして販売していましたが、それが販売できなくなった。そして、野菜。台湾の経済が発展して、野菜のコストが上がりました。メインの生産地が中国大陸やタイになった。お得意さんは、うちの会社を通して買いたい。と言ってくれたので、大陸とも商売したんですけど、大陸の方は野菜の収穫や扱いが台湾とは違って、冷凍するまでに時間がかかってしまうんです。」

 

― 中国大陸と台湾の農業というのは、大きな差があるのですか?

勝野「余談になりますが、例えば台湾での枝豆の収穫は効率の良いハーベスター(車輌)で時間をかけずにやります。収穫後時間が経つほど味が落ちる。だから午前中に一気に収穫します。台湾で使われているハーベスターは1台で日本の13台分の仕事をするそうです。日本から視察に来た方がびっくりしていました。12~15ヘクタールの畑を1時間で収穫できる。台湾の場合、元々、枝豆の種は日本から持ってきたものだそうですが、台湾農業改良委員会が自国の気候に合うように品種改良を重ねていて、良いものを作っています。特許を取って、それを自国で守って育てている。今や日本の枝豆も敵わないんですよ」

 

― そうなんですか! 知りませんでした。勉強になります。

勝野「枝豆は今でも台湾産がメインですが、それ以外の野菜の流通は、時代とともに状況が変わってきました。エビ、野菜ときて、最後の畜産ね。豚肉の方は、日本と台湾は距離が近いので、原料だけでなく、チルドポークの販売をしていました。台湾の豚、美味しいでしょう? どうして美味しいかわかりますか?

 

 ― わかりません。是非、教えてください。

07勝野「台湾は国全体で品種改良をしているんです。肉質が良いとされている豚はオスの黒豚です。他に子供を丈夫に育てる品種もいれば、体の大きい品種もいる。台湾の豚は以前から三元交配、ハイブリッドなんですよ。さらにその遺伝子を調べていて、血統を全部把握しています。

 それから、豚1頭あたりの飼育面積が日本の3倍位あります。よく運動できるから赤肉が発達するでしょう?そのうえ、飼育期間も長い。

 台湾の豚は清潔を保つのと、暑さ対策のために5気圧ぐらいの水で1日3回くらい洗うんです。それがね、マッサージ効果になって、赤身のしっかりしたところに脂がさしていくから、普通のロース買っても霜降り肉なんですね。

 台湾には豚の目利きがたくさんいますから、肥育期間が違う同じ体重の豚を市場に出すと、5か月半と6か月半の豚も見分けられる。レベルが高いですよ。だから美味しい」

 

― 台湾の豚にそんな秘密があったんですか! どうりで味が違うわけですね。

勝野「日本の企業が『うちの会社の商品はこういう味です。こういう風に加工してください』と、豚肉の自社商品を持って台湾へいらっしゃいます。そこで、先にうちの技術者が作った商品を味見してもらうと、『やっぱり、こちら(台湾)の味でお願いします』と言って、せっかく日本から持ってきたサンプルを出せなくなってしまう。それくらい台湾の材料の味は良いんです。当時、日本の加工肉の配合は添加物が多かったですね。台湾の豚はその必要がないから、いかに余計なものを減らすか?というのが課題だったんです。うちの技術者はそこらへんが巧いんですよ」

 

― それなら、台湾から輸出する豚はどこでも人気がありましたでしょう?

勝野「そういう風に商品を作って、日本へ出していたんですけれど、1997年。台湾で『口蹄疫』が流行りましたでしょう?豚の輸出が一切出来なくなりました。その直前に、台湾健康と日本の明治ケンコーとの資本関係が切れて、『台堅食品』として独立した会社になっていたんです。僕は技術者と一緒に台湾に残っていました。」

 

― 危機的な局面に遭遇して、日本に戻りたいと思いませんでしたか?

勝野「それまで会社の資本は日本だったけど、僕たちは長いことこっちでやってるからね。やるべき仕事もあるし。当時、董事長だった邱永漢氏が『あなたたちがいなければ、この仕事は続けていけない。私が皆さんの面倒を見ますから一緒にやりませんか?』と言ってくれたので、残りました」

 

― 独立したばかりの時に、口蹄疫に襲われる。大変でしたでしょう。

勝野「口蹄疫、一番困ったのはね、その頃、大手の各商社にチルドポークを出していたんです。しかも3月末。通関の関係で4月に出す商品を何コンテナも溜めておいた時に口蹄疫ですよ。チルドポークは日本で通関が切れないし、冷凍肉は輸出できないし、支払いの資金繰りが大変でした。手元に豚肉はいっぱいあるけどね、お金が払えない(笑)」

 

― どうなさったんですか?

勝野「時間やお客様は待ってくれませんから、日本と台湾のお客様への商品供給をどうするか?会社としてどうするか?即決しなくてはいけません。結局、工場は閉鎖して、450人の従業員に退職金を支払いました。そして、韓国に工場をつくり、その年の10月から移動して日本向けの輸出を再開しました。台湾国内向けは別会社に協力してもらい、技術指導だけでなく、営業所、営業マン、お客様も全部渡してフォローをお願いしました。その時は夢中でしたが、今考えると大変でしたね(笑)」

 

― よくぞ、その局面を乗り切って転地されました。

勝野「なんとか乗り切ったんだけれども、韓国ではね、豚の品種によって獣臭が強かったり、バラ肉をみんな焼肉にして食べちゃうでしょ? それで、焼き豚の原料になるバラ肉がなかったりしてね。そこへ、台湾で国内販売を引き継いだ会社から『輸出許可をとったから、台湾に戻ってこないか?』というお話を頂いたんです。韓国の工場も維持しつつ、お話を受けて台湾に戻る準備をしはじめたところに、今度は韓国で口蹄疫ですよ(笑)。韓国に居たのは、実質2年半かな。人生で2回も口蹄疫っていうのはあんまりないと思うんだけど(笑)」

 

― 笑ってお話されていますが、どれだけご苦労なさったんでしょう! 口蹄疫が畜産業者に与える被害というのは実に甚大なものなんですよね。1997年台湾の口蹄疫では350万頭が殺処分されて、被害額は70億米ドル近かったと記録があります。そんな口蹄疫を、違う国で2度も経験されるなんて。

勝野「この時は、台湾の協力工場が日本の動物検疫所から輸出許可を取得していたので、韓国からの移動はスムーズでした。台湾に戻ってから、工場での生産が安定して伸びた時、工場検査で不備が見つかり、改善するまで輸出がストップしてしまいました。それも6年間で2回。この時も大変で、今度は日本へ行って協力工場にお願いし、商品供給しました。もちろん大損です。そして3回目に輸出停止になった時、協力工場が競売にかけられて、他所に買われてしまい、工場がなくなりました」

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― 
食品の輸出入というのは、様々なアクシデントがあるのですね。

勝野「そこで、一度解体して今の会社を立ち上げます。規模を縮小しましたが、新たな協力会社と再スタートをしました。少数ですが、今ここに居る人たちはみんなプロです。技術者は日本から一級ホテルのコックさんが来て一緒に仕事をすれば、一発でオッケーが出るくらいの腕前ですし、経理はどこの銀行へ行っても、国税局へ行っても丁重にもてなされるような人物です。僕たちの中の誰が社長でもいいんですよ(笑)」

 

― これまでの危機を一緒に乗り越えてきた方々と、少数精鋭で現在の会社『新敦榮股份有限公司』を設立なさったのですね。

勝野「現在の会社では、主に日系外食産業が販売する商品も取り扱っています。日本から来たラーメン店のサポートをしたりね。他にも、東京に『台湾物産館』という台湾政府のアンテナショップがあるんですけれど、そちらへの品物はうちからお出ししてます。今は、一概に貿易の仕事だけでもないんですよ」

 

― 日本と台湾が経験してきた歴史的事件や社会問題と密接に関係しながら、時代の荒波をくぐりぬけて、台湾と日本の食品産業を開拓していらっしゃった勝野社長のお話、本当に勉強になりました。ありがとうございます。

勝野「色々ある中でね、やってきましたけど、『塞翁が馬』です。何があるかわからない。経験上、会社は潰れるものだと思っているんです(笑)。何百人もの人が働く大きな工場が無くなるんですから。そんな中で、残る人たちを見ると、やっぱりその人の実力なんですよね。会社がつぶれても伸びる人はいっぱいいます。僕は自分の子供達が大人になったら、大企業には入って欲しくないと思っていました。小さい会社でも自分で責任を持って仕事をして欲しい。安定なんていうものはないですから」

 

― 経験に裏打ちされた重みのあるお言葉ですね。

勝野「そしてね、僕は、節目節目でいろんな人に助けられました。長く営業担当でしたから、何千枚という名刺が手元にありますけれど、商売抜きで大切な人が何人もいます。やっぱり必要なのは、人との出会いを大切にすることです」

 

― お母様の教えの通りですね。『身についたものしか残らない』。

勝野「そうですね。それが基本です。うちの会社も結構自由でね。仕事がなければ、何時に上がってもいいんです。自分の責任において判断してくれればいいんです。仕事は楽しくなくちゃいけないから、いつも会社のみんなに聞いています。「仕事たのしい?」ってね。楽しくなけりゃ、やる意味が無いからね。」

 

― 素敵な会社ですね。勝野社長のお人柄が伝わってきます。

勝野「人数が少ないからこそ、できることですし、自己管理が出来ない人のいるところで、それは出来ないでしょう?」

 

― ありがとうございます。ようやく、勝野社長のお仕事の全貌が見えました。

 

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